(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成13年11月号
 この稿が掲載されたころには戦争になっているだろう。アメリカが華々しく近代兵器で緒戦は勝利していることだろう。だがアメリカは間違えた。巨象(アメリカ)はアリとは喧嘩ができないばかりか、逆に悲惨な目に遭わされる。
 アメリカの間違いは自分を正義としたところにある。それがアメリカの傲慢の現れだ。だがアリも正義を訴える。巨象とアリの正義…。ではどちらが正義なのか…。

 その正義の真偽を問い、正義のありようの提言をマスコミはしなかった。マスコミに正義のありようを提言する必然はない。だが「アメリカの正義に疑義あり」という主張が見えなかったのはどうした訳か?。正義はほとんどがアメリカの側だけを意味していた。
 正義が戦争に勝って実現できるものではないことはだれにでも分かっていることだ。テロリストの総本山と呼ばれていたタリバンの唱える事に正義を見ようとしなかったのはどうした訳か…。
 マスコミが正義の真偽を問い正義の在り方を提唱したら、巨象とアリのどちらが正義なのかが見えたはずだったと筆者は思う。

 ではどっちの正義が正しかったのだろうか?。それはどっちも正しいとしか言えないのだ。正義に正しいなどというものは存在しないからだ。すべて正義として主張されるものは正義なのだ。存在を懸けて譲らぬものが正義なのだから、土地風土文化が違う分だけの正義が存在することになるのだ。
 だから今回問われるべきだったのは正義の在り方だった。正義の在り方というと、筆者は日本人の曖昧な精神とその曖昧さの原点を思ってしまう。
 話は飛ぶようだがタリバンが日本に問うた事は日本人の曖昧さをよく表していたと思う。タリバンは「広島・長崎の罪をなぜ日本は忘れたのか。なぜアメリカを憎まないのか」と問うたのだった。憎むことの是非は別にして「ほら言われた」と筆者は思った。
 筆者は以前から第二次世界大戦での戦犯の名誉を回復すべきだ、と主張している。なぜなら戦犯を定めたのは勝戦国だったからだ。戦犯は勝戦国にはいないのだ。だが侵略主義がベースだった点では勝戦国も敗戦国同じだった。だから敗戦国の侵略主義だけが悪いという理屈は当たらない。もし敗戦国に戦犯を作ったなら勝戦国にも戦犯を定めねばならない。そしてその戦犯を勝戦国も敗戦国も同じ法律で裁くべきだ。
 現実は勝戦国に戦犯はいなかった。だがタリバンの言う通りで広島長崎の市民を原子爆弾で死なせた罪をアメリカは問われるべきなのだ。敗戦国の戦犯はその責任を取らされているのだから。

 …現実はアメリカの責任を問うていないのだから、日本の戦犯の名誉を回復してやるべきなのだ。
 だが私たちはこの八月に戦犯が祭られている靖国神社が問題になった時にも戦犯の問題を通り過ごした。さらに終戦記念日が毎年巡り来るのに広島長崎で犯したアメリカの罪を問い直そうとはしない。
 そこがタリバンに蔑まれた曖昧さで日本人らしさなのだ。だが日本人は本来が曖昧なのではない。

 縄文文化は世界に唯一の存在だった。その縄文時代には曖昧ではなく『住み分け』の価値観があった。住み分けの価値観が弥生人化した時に曖昧さは変わった。なぜなら(神社ではない)神道というものの思想価値観では、この住み分けの原理を絶対神聖視し、お互いの存在を認め侵さない事から始まっていることに気づくからだ。

 正義に真偽はないのだから、今回は正義の並立こそ問われる事だと思う。正義の並立には古来の価値観の住み分けへの理解が必要だったと思う。この国の総理が日本文化の基層をもっと知っていたら力による正義の実現を防ぐ道案内ができたのかも知れない。

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