(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年1月号
私たちの教会には自己研鑽の組織がある。神道という宗教は教えに帰依して自立する(そんな事は人間にあり得ないが、宗教の殆どは価値観・規範の移入であって洗脳と何も変わらないのが現実だ)のではなく、自立を目指して実践を積み上げ自己規範を確立させて行く。だから、教えとか規範はずっと後になってでないと生まれない。ちなみに教会の自己研鑚組織は「登山講」であり「縄文研鑚倶楽部」であり「自然葬を考える会」で、教会組織の全てで、実践のみのまさに神道の団体と言える。
 さてその中で「自然葬を考える会」は筆者一人だけが会員だ。敢えて会員を募集する気もない。「人間ばかりが他の動植物を勝手に利用し濫用し、地球宇宙を汚染している。せめて死んだ時くらい宇宙に恩を返すべきだ。死んだら人間という意識を捨てて地球の肥料になろう」が、この会の主張だ。
 しかし筆者の主張は外国人に通じるようだが、日本人にはなかなか通じない・・・それが現実だ。日本人が骨へ異常な執着を持っているのが原因のようだ。対して外国人は遺骨への執着が薄い。
 遺骨への執着と言えば最近は戦没者の遺骨の遺伝子鑑定を希望する人が増えているという。なるほど現代の遺伝子工学の力を持ってすればそれも可能だし、正しい結果に至るはずだ。でも筆者はどこか納得できない。他人の骨を祭ったがために祟られる訳でもない(そのような霊的因果はもともとが無い)。それを便利とは言えるが犯罪じゃあるまいに鑑定依頼をする気持ちを割り切れない。はっきり言って異常で恥ずかしいと思う。
 でも現代はそのような便利にあやかる事を夢がかなったと言い、幸せと呼ぶ。
 えひめ丸海難事故があった。二次災害の危険が大きいのに、被害者は船の引き上げ作業を強行させた。奇跡的に作業は成功した。この事故の場合過失は百%アメリカにあったし事故後の対応も悪かった。だからと言って海の底に沈んでいる船を大きな危険を冒してでも引き上げろという権利は、いくら被害者でも持ち得ない。なにより、生存者の可能性のない作業だった。医学の世界では延命治療が否定されだしているのに、被害者という立場になると無理難題をも叶えてもらえるという思い込みがある。そしてマスコミはめでたしめでたしで扱う。だが筆者はそれは間違いだと思う。恥ずかしくて悲惨な事なのだ。
 突然の事故で気が動転するのは仕方ない。が、ふだんの生きざまが動転したときに現れる。遺族でないから批判できるのではない。もし筆者が遺族だったら泣くだけ泣いて終わりだ。なによりも子供が船員学校に入った時点で不慮の事故への覚悟はきめている。何かの裁判のように、和解したのに「でも健康な体は帰って来ません」などとは言わないだろう。
 話は戻るが、骨への執着は家への執着に原因し、家への執着は自立性のなさに原因する。骨・墓を守るに執着する人は良い人と評され、孤立をしないで済むからだ。死んだ人にしたらいつまでも遺族でいられる方が辛い。弔いのケジメをつけたら自分の人生を歩いてほしいと死人は思うだろう。孤立を避ける姿を筆者は悲しく思うし、孤立のできぬ自立性のない人を良い人とはとても呼べない。
 人間には本物と偽者しかないのに、ここにも良い・悪い人という意味のない価値観が見える。
 良い人になれば孤立が避けられる。自分が孤立しないことを最優先できるそんな人を社会でも良い人と呼ぶ。だがそうだろうか。良い人は常に孤立を避けて幸せにいようとするから、はたでは大迷惑だ。自立性のない人は常にはた迷惑を引き起こす。はた迷惑の分だけ自分が幸せになれるからで、それは恥ずかしい生き方なのだ。

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