(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年10月号
皆んな仲良く一緒に、という考えには大きな疑問を感じる。無責任なマの良さがあるからだ。でもそれを優しさと現代では言う。
落語に『立川流』がある。落語協会から脱退したのだから正式に落語なのかどうかは分からない。最もその判断は聞く側の評価で協会や立川流家元の判断ではない。その立川流の家元は、色々と物議をかもす立川談志だ。その談志家元に入門した門下生の多くは破門の憂き目にあっている。破門された旧門下生が合同の勉強会をし合同の高座を開くという…そんな事をNHKのTVでやっていた。
 なにしろ立川流では五十以上の噺(ハナシ)とそのほかに踊りのような一芸ができねばならず、しかもその一芸も秀でていねばならないという定めなのだ。それができそうにないと家元に判断されると破門となる。だが五十噺と一芸ができる人はまずいない。だから破門者が相次いで出、その破門者が一同にそろって勉強会を催した
 天下のNKHのやるニュースではないと思った。そのコーナーで家元のコメントは無かった。家元が「下っだらねー」と例の口調の一言でNHKのインタビューを拒否したことは容易に想像される。家元が変人なのではない。そこに談志という人間の本物さがあってまた家元という責任の自覚の大きさを筆者は見る。
 家元は破門者が頑張ってどんなに出世をしても「ダメなものはダメ」と認めないだろう。 「そういう噺家もあるだろうがオレの目指す噺家ではないから認めない」で終わりだ。実質のないものを認めよ、と言われても認めようがない
 家元は、噺(芸事)は人柄に因るだけのもの、と看破している。だから自分のバカを磨こうとしない人を破門するのだ。筆者の節穴だらけの目で見ても今の落語家は小器用すぎると思う。噺家ではなくお話し屋さんだ。現代の落語がつまらないのは現代にない道具が話に出過ぎるからだという説があるがそうではない。小器用なだけでハートに残らない語りだからだ
 家元はお話し屋さんでなく噺家を生み出したいのだ。となれば破門者が一同にそろって勉強会を催すことの意味はどこにあるのか。そうではなくて五十の噺を唱えながら放浪の旅でもするほうがずっと価値がある。一同にそろって勉強会をして同じ色のアホウをお互いで多く作るから、最高の結果でも小器用な噺家しか生まれない。
 でもそれは何も落語の世界だけの事ではない。何度もいうが、物事の解決は自分が変わってこそなる。勉強ならいくらでもするが現実の不都合は徹底して避ける…だから一人で歩けない…大勢なら安心できる…そんな情けない人が見渡せば社会にはごまんといるのだ
 筆者も滝で「お前もう来るな」と何度も言った。滝の会員が増えないのは誰あろう筆者のせいである。筆者に来るなと言われた者が頑張って滝を極めたとしても筆者はそれを認めない。 「そういう滝もあり、なんだネ」で鼻にもかけないだろう。筆者が正しいのではないが、滝場に出入り禁止したのは現実の不都合を徹底して避けて幸せと言える人ばかりだからだ。だから出入り禁止の者が滝を極める事はあり得ず、例えあったとしても極めた事に実質がないから筆者には評価をしてみようがない。
 破門も出入り禁止もどうでもよいが、人と同じ事をやる事が疑似体験であると気付かないのは悲しい。疑似体験をどんなに多く体験しても体験にはなれない。体験にが必ず大きな痛みが伴うが擬似体験には傷みがないからだ。
 痛みを受け入れなくては自分が磨けない…。なのに私たちは多くの人と同じことをして安堵する。社会は談志家元や筆者と違ってそんな人を拒否しない。だが、だからこそ安心を得られず、物事の核心に至れないのだ。

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