(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年12月号
 北朝鮮に拉致されたYさんを見て、男に自分を委ねて生きられる女はどこにもいるのだと思った。Yさんのそんな話したら、「良いじゃない。それで家庭に波風が立たないんだから」と言う人がいた。
筆者は「都合の善し悪しで生きているから少しの事で病むんだ」と思った。…Yさんを非難するのでなく病気の気について述べたい。
 以前にも書いたが国によって病気の基準が違う。端的なのは皮膚病で、日本で皮膚病でもアフリカではそれを皮膚病と考えないことがある。病気の基準の違いは国の違いだけでなく、人それぞれで違う。ケアハウスの入居者をみているとそれが如実に分かる。例えば心配事があって食欲がなくなった場合に、胃の病気と思って薬を飲む人がいれば、心配事がなくなるまで待つ人がいる。胃薬を飲む人が仮病を使っているのでも、心配事がなくなるまで待つ人が病気を隠しているのでもない。どちらも嘘ではないのだ。
 環境の変化によって人は病むようにできている。が、病いを病気にする人としない人が現実にいてそのどちらも嘘ではない。ではその違いはどこにあるのだろう?。簡単な事で病『気』とはそういうもので、気の鍛え方つまりふだんの生き方から違いが産まれるのだ。
 内・外的な変化に対応できなくて病いは生まれる。どんな変化にも対応できるタフさを持つ人は皆無である。だから誰でも病む。生きることと病むことは裏返しの関係だ。つまり生きるとは常に病んでいる事でもある。
 問題はここからだ。誰でも病むが、病んだ人の皆が病気になる訳でない。病気は自らが作る。国の違いや人の違いで病気にするかしないかが決まる。ではその分岐点は一体どこにあるのだろう?。
 病めば誰も共通して痛む。だから病気の分岐点は痛みを感じる感じないにあるのではなくて、痛みをどう受け入れるかあるいはどう逃げるかにある。その差とは病みに伴う痛みの受け入れ方なのだ。つまりは自立への思いの強さである。神が病気を人に授けた訳も実はこの自立に目覚めさせる事にある。逆を言うと自立指向が弱い人ほどいつまでも病んでいるし「その程度」の事でも病気にしてしまい、他人の力をアテにする。
 よく言う事だが、病んでいても生きる努力は同じであってその努力は個人が果たさねばならない。
「病んでいるのだから休め」とは回りしか言えない言葉なのに自分でそれを言って休んで矛盾を感じない人が多い。働くことが正しいのでも休むことが間違いなのでもない。自立指向が健全な人は当たり前のことを当たり前に受け入れて正当な判断をするだけの事だ。だから病めば難儀だが、でも直せるのは自分だけと知っている。
 病む事を受け入れられない人が病『気』になる。病気になる人は元々から自分のこだわりを捨てない生き方をしている。自分がこだわりを曲げないで回りに曲げてもらって自分を活かしたつもりの人が病いを病気にする。不都合な現実を受け入れないから病む事と戦うエネルギーを産めず、だから病むことを病気にしてしまう。現実を受け入れられない人は「その程度」をも病気に変えてしまう。逆にどんなに不都合でも現実を受け入れる人は不都合な現実と戦うエネルギーを産むから、病むだけで終わってしまう。
 人生は現実をそのまま受け入れるための自分との戦いである。自分を他人に委ねればその戦いは放棄でき、戦わないから楽で居心地よくいられる。だが自分とすら戦えない者にどうして逞しさが産まれようか。自分との戦いが生きる摂理であり、その摂理を捨てた安楽を幸せと思う…だからひ弱ではた迷惑で病いを病気にしてしまう。
 生きるとは自分を他人に委ねて好都合を得る事ではないのだから。



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