(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年2月号
 滝は寒篭りの真っ最中である。厳しく激しく厳粛な村松の再生の滝から町に出るとガク然とする。そして「これが裟婆の世界なのだったのだ」と落胆する。
 何のことはない。裟婆には自分の幸せの追求だけで人生を終えられる人が圧倒的に多いだけのことなのだ。不幸が九十九で幸せが一それが人生なのに、だ。例え不幸・不都合でもそれを甘んじて受け入れることから人生は始まるのだと学ばせられた後だから、そのギャップにガク然とするのだ。
 幸せも不幸も人生の風景であって人生そのものの一部だ。同じように仕事も家庭も子育ても人生の一風景であって人生の全てではないのだ。なのにそんな風景を自分の思い入れだけで人生の全てにしてしまう。だから都合の良い人生となる。
 良い人・良い家庭・良い体がその代表だ。自分勝手な思い込みを無理やり実現するだけなのだから良い思いをしているのは本人だけで、回りはその分だけ踏み台にされている。踏み台にしているのに回りや子供や仕事や健康を愛していると宣う。どう宣おうと勝手だか、都合が悪くなるとその人の愛がどんなものかが見えてくる。はっきり言うと、愛の無いのが分かる。そして愛する対象を努力しないで済む別のものに求めて行く。
 運動会でビリになる子供に「パパの為に頑張ってくれ」と言う親がいる。辛いのは子供なのに、自分の為以上に親の為の頑張れという。トップになれば良い子でビリなら悪い子なのだ。親の為に頑張れと真顔で言える親に子供への愛などはない。かわいいのは自分なのだ。自分の都合を満たしてくれればかわいく良い子、なのだ。親の為に頑張れ、は子を励ます言葉ではないのだ。
 そんな親は子よりも自分が良い人になる事を優先して平気だ。ただそれに気づかないだけなのだ。それと同様に職場でも良い人となって妻に負担を強いる。そして負担を自分が担ぐ事はしない。なぜなら負担を担ぎたくなくて良い人になろうとするのだからだ。
 前にも書いたが「運転できる範囲だけしか運転しないでハッピーな人」と同じで本来その人の責任で運転しなければならない(その人が運転できない)範囲は誰かが泣く泣く運転している。だが運転してもらった人はハッピーで痛みがないから回りの不幸負担が分からない。運転を代行してもらって居直るのならまだ分かる。自分の至らなさが分かっているから居直るのだから。だがハッピーな人は矛盾や痛みがないから自分の至らなさが見えない。当然に回りに迷惑をかけているのも見えず、代行者を見つけなばならない不便を永遠に愚痴る。
 滝場から下りて裟婆で出くわすのはそんな現実なのだ。そしてそんな事を幸せと称し、そんな幸せを実現することが人生だと思っている。大きな錯覚だ。
 何より情けないのは、そんな錯覚をしている人が多く病み多く不満を訴えることだ。思い違いが原因で心身が悲鳴をあげているだけなのだが、そんな思い違いを直そうとはしない。自分ほど我がままはいないのに、永遠に不幸と言い続けるのだ。物事の解決は自分が変わることにある。自分が変わらぬ解決は例え感動する風景でも、不満なままで見過ごすものだ。誰も悪くは無い。あんたが悪いのだ。
 あんたが悪いと言われると、そんな人は自己弁護をする。また実際に自己弁護が巧い。回りがいたわりで言う言葉を自分から言うのだから弁護がうまいのも当然だ。病気でも家庭が不幸でも仕事が不調でも、割り引いてくれるのは回りの人の温情の故なのだ。励ましという温情のために筋道を外した言葉を自己弁護に使ってしまえるのだ。それを筆者は傲慢と言うが、世間の多くは幸せという。

講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy