(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成14年7月号
 筆者とSさんが新潟市の東体育館で歩き出した。夏の御嶽登拝の足慣らしだ。世は健康ブームでいろいろな人が歩いていた。ダイエットの為にはゆっくりと正確に歩く事が肝心だ。だが世間一般にはゆっくりと正確に歩く事を、チンタラ歩く事と解釈するようだ。そこに加えてタチの悪い人は、周回路に横並びでおしゃべりをして歩く。それを楽しいと思っている。
 筆者が我慢しかねて「一列。横並びは邪魔」と怒鳴って追い越す。嬉しい事に、怒鳴った筆者の陰口を言い合って彼女達は退場した。
 筆者以外には抗議する人はいなかった。皆も怒ればよいのだ。怒らないで我慢する人はまだしもで我慢して得意になっている人すらいる。そんな人は良い人指向の価値観なのだが、こんな人も問題外でかつ有害な存在なのだと思う。
「どこでも家にいるままに物事をして何が身につくか」と思う。あんな事を楽しいと言えるセンスが分からない。何より、一所懸命という本当の楽しさが分からない彼女たちの人生を悲惨に思う。
 楽しさの定義にもいろいろあっても良いが一所懸命でなくては自分に失礼だ。チンタラやって楽しいのは自分に失礼なことすら分かってないことの証明で、自分に失礼なことが分からないのは生き方が間違っていると思い知るべきだ。
 チンタラやって楽しく一所懸命やるのをダサイと言うのは何も若者だけではなかった。かように現代のオバさんたちがその手本をやっているのだ。一所懸命を分からない人が、自分をタナ上げしてイジメを議論している。不思議だ。
 思い違いは人間の致す事で仕方ないが生きる熱意の違いは致命的だ。なぜなら生きる熱意が大きければ大きいほど、強い意志を生み強固な哲学を形作るからだ。ローマは一日にしてならずと言うが、人生はもっと大変な時間を要するのだ。一度逃げを打ったら二倍の難儀を、二度逃げを打ったら四倍、三度逃げを打ったら九倍の難儀が待つ。逃げと難儀には二乗の法則があるからだ。四度逃げたら修復不能にもなる。だから楽しさを錯覚していながら錯覚と思わなくなる。楽しさの錯覚をしている人は問題の錯覚をしているから、我が思いを満たして解決したと間違った判断をする。解決とは神が決めることで人間個人の思いで決められる事ではないのにだ。
 さて話が戻るが、Sさんと始めた足慣らしに滝打たれの面々が自発的に加わった。自発的にといったが、取り組む姿勢で本当に自発的なのかどうかが見えてくる。いち早く参加したから自発的とも言えない。遅く参加したって頑張っている人もいる。夏登拝でその結果が見えてくる。夏登拝は登拝の修行でありながら、足慣らしの真剣度の発表会なのだ。
 どこまで自分の問題点が具体的に見え、その問題克服の努力をどうやれたか…それが夏登拝では如実になる。足慣らしに来なければ色々と言い訳ができただろうに、滝打たれの会員は今度は誰のせいにも出来なくなった。自分のありのままが結果として出て来る…。
 必要な努力と真剣に渡り合ったかどうかは努力を果たすために自分が捨てたものの量と比較する。良い事だから参加するという態度でいると難儀して信用をなくして終わりだ。良いことでも自分に必要ないならば要らぬ苦労で、要らぬ苦労をするのもまた我がままと言える。自分を捨てないで結果を出したって努力とは言わない。結果を出すために自分に犠牲を求める努力こそが求められる。それが真っ当な努力と言うもので、自分を捨てる事と同じ意味になる。
 人間は現実に対して常に受け身
が正しい。受け身とは万難を排して現実を受け入れかつその現実をコナすことだ。コナした結果が美味であろうとマズかろうとそれが神の定めた解決で、どんなにマズかろうと必ず安心があるのだ。

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