(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年1月号
 失敗学なるものが学問として、できつつあると言う。いわく失敗は恥ずかしいことでも悪いことでもなく、有り得るべき事に近づく宝である、と説く。
 失敗学では「失敗は成功のもと 」ではなく『失敗は失敗のもと』と説く。なぜかというと、失敗が恥ずかしく悪いことという思いがある為に失敗を隠してしまって失敗の原因を追求しなくなるからだという。そうかと筆者は思った。
 筆者は反対に失敗を積み重ねて行けばいつか成功すると主張して来た。失敗は失敗のもとは、そんな筆者の主張とは全く逆な言い方だった。でも良く考えれば同じことを言っているのだった。失敗を恥ずかしい事と解釈すれば失敗になり、失敗を当たり前の事とすれば成功に至り安心に至るのだ。だから失敗学を唱える教授と筆者の唱えてきたこととはほとんど同じだった。
 失敗を隠すとその世界だけにしか通じない真実となって、社会問題が起きて来る。例えば会社での失敗を隠して行くと会社が預託されている責務を忘れてしまってその会社の正義が社会常識に反して行き大きな問題となる。狂牛病、ハム会社などの食品業界の問題はここに起因すると教授は説く。
 食品業界の問題が社会の預託に応じられなかったために起きたという事には筆者は疑問を感じる。その理由は企業に社会正義を預託しているといえる人が何人もいないと思うからだ。企業の存在理由が「社会貢献」にあると心から言える人が少ない。ということは正義の預託とか貢献の預託というまえに「預託」という発想を持ち得ていない人が圧倒的に多いということだ。企業に必要なのはまず第一に利益と述べるのが我々の多くではないだろうか。利益第一にとって正義とは利益を挙げることに尽きる。だから筆者は教授と違って、食品業界の問題を初めとする現代の多くの社会問題はひがみの平等から発していると見ている。
 ともあれ、失敗は隠さずさらしてさえ行けば必ず『妥当な解決』に至る。そしてどんなに自分の気にいらないものであっても、妥当な解決を積み重ねて行けばいつか本当に有り得るべき姿に至る。それが本当の解決であり、預託に応える事でもあり、安心に至るものである。これは失敗学を唱える教授と筆者の共通した真実である。
 ではどうすれば、失敗を隠さずさらして行けるか、である。問題はここにある。
 本来が失敗を推奨しなければならないはずの世界が失敗を否定している。学校教育がそうだし家庭教育がそうだ。心の尊重個性の尊重といいつつ、人と同じである事を是としている。他人と同じで個性的であり得ないのに突出した子を認めようとしない。突出そのものを悪にして何とも思わない。突出が個性にかかわるのだから、突出の否定はその子の人格否定をしていることを意味する。教育とは人格を肯定し行動を否定することであらねばならないのに、人格否定していることに気付かない。
 そんな人格と行動の両面否定が学校でも家庭でも行われている。それは親自身が失敗から真実を身に付けたことがない証拠だ。

 ハードルの実体は越えた者にしか見えない。越えない者に何をどう説明したって空念仏を唱えているに過ぎない。失敗をゴマ化したり隠したり避けたりする親や教師が失敗の貴さをどう子供に教えるというのか。失敗するための勇気をどう作り出せと言えるのだろう。
 人生を私していると勇気の出し方が永遠に分からない。神が不都合な出来事でその勇気の出し方を教えようとしておられるのに、私たちはそれを避ける。避けて自由だの幸せだの優しさだのと宣うが自分に不誠実な丈だ。がそんな不誠実な人を社会は良い人と言う。都合良い。間が良い丈なのに、だ。



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