(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年11月号
 『講談師見てきたような嘘を言い』ということわざがある。さて今年のNHKの大河ドラマは「武蔵」である。武蔵とは宮本武蔵のことだ。講談師の嘘ではないが、筆者の子供時代の歴史ドラマは、主人公側は善人で相手は人格卑劣なる悪人として描かれていた。例えば武蔵が主人公の時は佐々木小次郎は人非人で描かれ、小次郎が主人公の時は武蔵が人非人だったその勧善懲悪を筆者は子供ながらに不思議に思っていた。でも現代は主人公も対立相手もそれなりの人格をもって描かれている。どうやら台本は人間の真実に近づいて書こうとするようになったようだ。
 それはさておき、武蔵である。我々は今年の秋季参拝で去年に続き中山道の馬籠峠にある「女滝」に打たれる予定だ。馬籠峠には外に男滝もあるが、この滝は滝壷が深くて打たれることができない。その女滝に宮本武蔵が打たれて修業したと言う。戦国時代の終わり頃から江戸幕府成立後までの時間を武蔵は生きた。だから武蔵は四百年前の人間である。その四百年の時空を超えて我々の滝の会と武蔵とはこの滝で接点をもっているのだ。時代の差こそあれ同じ馬籠峠の女滝に打たれるからだ。
 問題はここだ。修行は同じ体験を積み重ねることにある。つまり修行は師匠と同じ痛みを味わう事から始まる。師匠の心境いや境地の体得こそが目標だ。体得して肯定しようが否定しようがそこから先は修行者の信念のなす事だが必ず師匠の到達した境地を味わえる。
 武蔵と滝の会にも同じことが言える。つまり女滝に打たれるという痛みを共有する。そこでおこがましいことを言うなら、武蔵という人間の境地が見えて来る。そして筆者の独断で言わせてもらうなら「武蔵は大した人物ではなかった」となる。話を戻すがこの滝で修行したとするのは吉川英治という作家の言うことだ。だから打たれてないかもしれない。あくまでも吉川英治の小説の武蔵の人物評価を筆者がするに過ぎない。
 それにしても女滝に打たれると小説武蔵の人間の偏狭さが見えて情けない。勝つという「結果」しか求めなかった武蔵だからそれも当然だ。大体が武蔵は剣術が強かったのか。それも分からない。待ち伏せしてみたり、わざと遅れて行ったり相手より長い得物を使ったり…要するに勝つ為にやったことは現代で言えばセコいだけだ。決してまっ正面から勝負して勝ったのではない。むしろ卑怯卑劣な勝ち方ばかりなのだ。
 佐々木小次郎に勝って対戦相手がいなくなったとき、武蔵は日本一の剣客という称号を得たがその実、自分の卑劣卑怯さはよく分かっていたと思う。だから『五輪の書』などという極意書を書かねばならなかった。どうせなら、卑怯者の武蔵として一生を終えたら立派だったと思う。勝つためだけに生きたのだから、言い訳などしなくてよかったのだ。その不要な言い訳をせねばならなかったところに武蔵の精神の脆弱さを思う。またこの脆弱さは女滝に打たれて実際に感じてしまう。「武蔵は大した人ではなかった」と思わされる。
 結果を出すための修『業』と真っ向勝負の修『行』の違いでもある。修行をする滝の会の会員になかなか結果は出ない。元々結果を求めていない。武蔵と対決すれば一発で殺される。問題は生き延びる事ではなく生き方にある…滝ではそう訴える。だから一発で殺されて死にたくないと思いつつも、ここで人生が終わってもよいと必ず思う。修行の目的である安心とはそういうものなのだ。武蔵のように生き残った為に言い訳を続ける苦しさとは無縁なのだ。何も残さず死んで行ける大らかさがある。
 目的と手段、安心と結果、修行と修業の違いは大きい。
我々はこの初冬に武蔵と対峙して修行の大切さを思い、修行と出会えた人生の幸運に思いを新たにする。





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