(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年12月号
 来年は鬼に会う旅で多賀城市に行く。東北は米作りをしなければ本当に豊かだ。豊かだから一年待って同じ季節を迎えれば問題や過失が消え去る。日本人の問題意識の希薄さは四季の豊かな大自然が原因だと思うと腹立つ。
 それはさて、問題意識の希薄さである。現代は優しさ万能の時代だが、なぜ優しくないと駄目なのか答えられない。優しさについての考えが希薄なために優しさの定義ができない。現代の優しさ教育はその時だけ傷つかなければ良いという、はっきり言って相手の人格すら認めないその場しのぎを優しさと称しているに過ぎない。
 そんな優しさがまかり通っても疑問に思わない、あるいはまかり通って不満でも嵐の過ぎるのを待っていられるのが現代日本人と言える。だが、その態度は色々な問題の本質が問われずに過ぎて行くのと同じ意味だ。本質が問われる事なく現象だけが過ぎ去る事を解決とは言わない。そんな解決とは言えないものが多く存在していて、過ぎて行く現象を受け入れようとも現象と対立しようとしないで傍観して済ます・・・それが現代の日本である。解決の為にはっきりと物を言う人は人非人という評価を受ける。その人非人に甘んじて今月は筆者の真剣なる考えを提示する。
 介護の問題である。介護保険は平成十一年にスタートした。だからまだ現実にうまく対応ができていないという人がいるが、果たしてそうだろうか。何事も確かに対応できるには時間が掛かる。だが日本の場合、不文律がないから問題克服の対応に原則がない。不文律とは哲学である。簡単に言えば『ねばならない事』であり、つまり原則・目標を言う。
 その原則がないから介護保険の前の制度だった健康保険は破綻した。介護保険スタートの前に健康保険破綻のお詫びを誰がしただろう。詫びない事への批判もなしに新体制に移行できた事は問題意識の希薄さの立派な証明である。
 健康保険破綻をお詫びできなかった事は『健康とはなんぞ』という原理の問いかけが希薄であった証明だ。また国がお詫びしなかった事に立腹しないのは、我々にも『健康とは』という根本の問いかけが希薄であった事の証明だ。その様に問題意識希薄の状態で介護保険制度がスタートしたのだから混乱も当然だと言える。
 人間としてどう生きるか、どう命を使うか・・・を補完するのが健康保険制度だったはずだ。「年齢が七十才を過ぎたら積極的な治療に健康保険は使わせません。もし積極的な治療を受けたかったら自費でどうぞ。但し痛み止めの治療には健康保険は幾らでも使えます」と健康保険について筆者は主張したい。つまり長く生きれば良いのではないと筆者は言いたいのだ。脳死者だけではなく植物人間を人間としては認めないと我々がまず認めるべきなのだ。国は国民にその了解をとって然るべきなのだ。その上で介護保険制度がスタートされねばならなかったはずだ。
 日本は介護等級を定めているのに介護保険は無原則の適用となっている。そうでなく、介護等級によって積極的介護と消極的介護の二通りがあって然るべきだ。どこまでを人間と考えるか、何をもって生きていると考えるのか・・・への共通の考え方が我々にあるべきだ。
 例えば痴呆を伴う人で介護三までの人は積極的(活動的な生活ができる)介護を受け、介護四以上は消極的(自然死に近い)介護を受けるという様にだ。タネ明かしをするが筆者が述べた「」の主張はイギリスでは現に制度になっている。優しさ万能の日本人が見たら残酷と言うだろうこの法律をイギリスでは国民が支持している。イギリスが不文律の国だからだ。
 不文律は原則・目標に基づくから残酷に見えるが人格を認める点では極めて優しい。この原則の有無が案薨式とコロリ観音の違いだ。





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