(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年2月号
 断り方からその人の考え方や価値観がはっきりと見えてくる。断る理由は人間性を知るのに大きなファクターとなる。我がままでとか間違いを承知で断ったりはしないからだ。いつだって断る理由はベストで一番矛盾ないとその人は思っている。だから断り方にはその人の生活まで見える。だからまた筆者は「言うべきを言って学べ」とも言う。 普段の言葉のやり取りには必ずボロが出る。そのボロこそが自分の気づかぬ考え違いでもある。
 例えば滝打たれに「今日行けません」の答えがある。問題は答えを出すに至る経緯・理由にあってその人の考え方が丸見えになる。
 男の多くは仕事をその理由に挙げる。滝に来たくなくて仕事を逃げ口にするのはそれでよい。 「滝に行きたくない」という正直を言う誠意がないのだから。誠意がないのは自分自身に、なのだ。正直を言えばその返事で自身を昴めてゆくことができる。正直を言わず気安い立場にいると「言うべきを言って学べ」なくなる。学べない自身への不誠意とはそういう事だ。
 でも嘘をつく自身への不誠意はまだよいほうだ。辛いのは正直を言ってはいるが、考え方が間違っていることに気づいてないで言い訳をする人だ。毎回、仕事を理由にする人がいる。それも本心で、だ。だが本心な分、その人は考え違いをしていると断言できる。毎回仕事を断りの理由にする人ほど実は仕事をしていない。だから働く意味を経済にしか見いだせない
 だが本人は「いや自分ほど仕事をしている人はいない」と自負し否定する。確かにそんな人は大まじめに仕事をしている。だがそれは仕事ではなく満足の手段なのだ。
 「 仕事から三分の一、家庭から三分の一、自身から三分の一の人生を学ぶ」と筆者は言う。人間の共通した価値は時間にある。寿命が十年の人がいれば百年の人もいる。要は寿命を濃く生きる事だ。そして時間を濃縮して費やす事が学び真剣に生きるという事だ。
 例えば十時間働く人は二四時間の三分の一の八時間から二時間分だけ余分に働いていることになるが、元々が八時間で働けるものなら二時間分だけ生きる事学ぶ事を薄めているのだ。八時間で働けない事を恥じねばならない。なのに「二時間余分に働いてご苦労様」と評される。それは働く意味の分からない人の評価でしかない。
 たまの都合というハプニングが原因で二時間余分に働かねばならないのなら学べるが、いつも断りの理由が仕事という人は、ふだんの生活に吟味や照らし合わせがない人しか意味しない。
 人間は仕事だけをしていれば良いのではない。雑に長い時間仕事をする人は同様に家庭も自分をも雑にしている。それでいて自身は満足という構図がある。雑でいて満足を残すのを本当は迷惑というのに、だ。
 普段の言葉のやり取り、殊に断り方には必ずその人の価値順位が出る。男の場合は仕事が第1順位女の場合は家庭や子供が第1順位…。でもそれで良いのだろうか。第1順位は仕事や家庭でなく、常に自分にあるのが正しい。自分が第1順位であることに男も女もない。たまたま立場とか母性を優先せねばならない「時」があるだけだ。飽くまでも、たまたま、だ。
 第1順位が自分でないから満足して、吟味や照らし合わせをしない。第1順位が自分でないのは生き方が見えてない証拠でもある。仕事より会社より立場より夫より子供より、何よりそれらに応えられる自分でなければならない。
 仕事や立場や家族の次に自分を考える人はまじめで良い人に見える。だがそんな人ほど自分を曖味にしつつ自己本位に自分を生かしていて、回りでは大迷惑なのだ。
 自分個人の問題を仕事や立場や家庭の次に置くこと自体が人間本来のあり方に反するからだ。



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