(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年3月号
 滝打たれを本格に始めると、腹立ちを覚えだす。家族・友人・社会に対してだ。滝に通って腹立ちを覚え波風を起こしては大変だと思うなかれ。トゲトゲしていてこそ人間の感性はその人らしく機能でき、平穏な精神状態では感性が真っ当たりえないのだ。だからその腹立ちとは自分が変わったあるいは変わり出した証拠なのだ。滝だけでなく何かを身につける時には波風が立つものなのだ。回りは腹立つその人に人間が変わったと不思議を思うが、逆に今迄そんな腹立ちを感じない自分だった事が不思議だったと滝に通う人は思う。
 腹立ちは感性の為す事だから良し悪しの問題ではなくて仕方ない事だ。問題は覚えた腹立ちを見過ごすか否かだ…。これは生き方に確信せねばまともな処理ができない。腹立ちを許せる人を社会では大人と言うが、許すから良いとも限らない。許すか許さぬかその確信には長い時間を要し、そしてその確信には手引きもない…。「それにしても今迄の自分は腹立ちを感じなさすぎた」と思う、そこが自己変革の始まりだ。何遍滝に来ても今までの事に腹が立たない人は打たれ方が偏狭なのだ、と滝を指導する者としては断言ができる。
 筆者の新潟の仕事場には市場があって婆アちゃんたちが野菜を売っている。午後になると「 そこ車停めなさんな」と来る。駐車禁止の理由は婆アちゃんたちが車を横付けにして帰り支度をしやすくしたい為だ。婆アちゃん達には客の便利が思い浮かばないらしい。更に嫁を荷物の積み降ろしに使っている。そんな嫁さんに「婆アちゃんから小遣い貰ってかね」と聞くと多くの答えはノーだ。問題はそこだ。婆アちゃんが売上を一人占めするならば婆アちゃん一人で露店を出せば良い。嫁を使う根拠は何もない。そんなことすら分からない姑だから嫁は争おうとはしない。争っても仕方ないから、昼位は同じ家にいてほしくなくて露店の手伝いをしている場合もある。
 下手をすれば荷物の積み込みで足らずに、畑の手伝いをしないと悪口を言っていたりする。悪口を言いながら手にした売上を自分の金として使う。厳しく言うが、きっちりと働けない人は金を上手に使えない。孫にやったり嫁に出た実の娘の為に役立てる。しかし役立ったと思うのは当事者だけで、ハナから役立てようがない。なぜならば、金を使う基準が自分の満足、正確に言うなら自分が孤立しない点にあるからだ。自分が孤立しない為に金をばらまく事を本来は我がままと言う。そんな金を貰ったって本人の成長の為に使いようがない…。金を使って孫に「楽して得取れ」の人生を教えるだけの結果になる。金がなくなるのが悪いのではなく、金のなくなる人間性こそが問題なのに、だ。
 悲しいのは婆アちゃんにすれば心底それが家族の為だと信じていることだ。自分の為でしかないのに家の為家族の為と錯覚している。
 そんな婆アちゃんに限って、露店を生きがいなどと言う。回りに犠牲を強いて自分の生きがいを無理やりなりたたせているのにだ。
 婆アちゃん達は戦前の価値観で生きていて、家の為という大義を錯覚できるからまだ救われる。だが金を貰って「良い婆アちゃん」と間違った評価をしているわが子こそが情けない。評価を間違えるのは、生き方が間違っているからだ。貰った金や他人の犠牲によって便利さや都合のよさを満たしてそれを人生と認めるのは切ない。が多くは人生どころか幸せと称す
 本会の立律に『言うべきは言う』とある。だが言うべきことは腹立ちや疑問を感じなければ生まれない。そして腹立ちはトゲトゲした心からしか生まれない。トゲトゲした心を物騒だと多くは錯覚する。だが案に反してトゲトゲした心は感受性が強いから結構とお祭り騒ぎの楽しさに満ちている。それが生きる事の真の楽しさなのだ。




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