(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年7月号
 滝打たれを十五年もやって来て思うのは「人間は変わらない」ということだ。もっとも人間は変わる必要もない。自分というバカを磨き味わっていれば良いように神に作られてもいるのだ。
 天性と言うものがある。それを個性とも言う。その個性がどんなに非社会的であっても、私たちは受け入れ、そして磨かねばならない。個性などというと良いことのように思ってしまうが、この世でたったひとつしかないのが個性なのだ。ひとつしかないから個性は初めから非社会的で、だから筆者は個性をいびつ・歪みと言う。社会に順応できる個性は偽物の個性であり個性と錯覚している理性(後天的なもの)に過ぎない。
 自分というバカ(個性)を受け入れそして磨き、自分のバカに自信を持つこと…それが自分を味わうことだ。そして自分を味わう事は親でも子でも誰も絶対に代わってやれない事だ。ただじっと見ているしかないのだ。
 すべて、解決というものは自分を受け入れる事にあって、自分の思いを遂げることにあるのではない。なのに世の中の多くの人が夢を達成してそれを成功と言う。が成功であっても解決ではない。たんに我がままを達成したに過ぎない。回りで称えても自分で自分を称えられるものでは決してない。
 夢の達成は自分の個性の受け入れの第一歩でしかないからだ。世の中を見ると、夢を達成した時に個性の受け入れが始るのに自分を変えたと宣い自分と戦う事を忘れてしまう、そんなノーテンキの人や我がままな人が多くいる。
 夢を達成しようがしまいが、自分の個性の受け入れには時間と根気と勇気が膨大に必要となる。例えばガン患者が自分の病気をガンと認める際に自分との戦いに膨大なエネルギーを戻す。ガンを受け入れる事ですらそのようなエネルギーが必要なのだ。命そのものである非社会的なるもの=個性を受け入れるにはその何十倍ものエネルギーが必要になる。自分に歯咬みし涙しながら同じ失敗を繰り返して、最後になって自分を受け入れる…教会はそんな人を励ます場所だと筆者は思っている。教会はすごく根気の要る場所であって短気な筆者がよくやっていると呆れたりするが、それ以上に教会に来る人には努力と歳月が求められる
 そのような辛苦な人生ではなくて、多くの人のように夢を果たして終わりの人生も選べる。そのようにして多くの人が実際に生きてもいる。皆が皆、難儀な人生を選ばねばならないのでもない。恐らく神は圧倒的多数の楽(らく)志向の人々と絶対的少数の安心志向の人々を作っておられるように思う。生まれて来たのに悟らないでも何の矛盾もなく死ねる人が実際に多いのだから。
 楽志向の人は理性を多く授かって来たように思う。だから世渡りがうまい。安心志向の人には理性が少ない。理性代わりに絶対なもの・原理原則を授けられている。だから約束事にすら疑問を思い、上手く社会で生きる事ができない。
 だが教会で励まし役をしていて言えることは、辛苦な人生を自分に歯咬みし涙し同じ失敗を繰り返している人は、既に十分自分を味わっているということである。泣き笑い怒り落ち込むという毎日の生活自体がしっかり生きているということなのだ。
 いつまでたっても楽な自分にならない…が真実生きているという姿だ。「これだけやってもダメなんだもの、本当にやったんだよ」とそんな自分に呆れ果てたとき、自分のバカに胸を張れるようになる。つまり安心が生まれる。
 ダメな自分を受け入れるには、ただ全力で生きてダメをゲップが出るまで味わう事だ。味わい尽くすには膨大な手間暇を要する。が自分を既に味わっている。何より投げるに投げられぬ自分だけの人生をしっかりと生きているのだ。




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