(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年8月号
 ダウン症の子供と父親の写真がCMとなり、ブームになっているという。明治生命のCMだ。
 ダウン症とは遺伝子の染色体の異常が起こす軽い先天異常の病気で、知的発達が遅れたりする。そのダウン症という病気に心臓疾患が加わった為にその子は余命一年と言われた。辛いというか余命の一年が六年まで延びた。
 死を意識した場合に、一日というものがどれほどありがたいものか、良くても悪くても再び巡り来ない今日・今をこの子の親は六年にわたって経験した。経験したとはいうが、最初は経験させられてきて、次に経験してきて最後は経験という認識すらなくなっていたはずだ。最後はただありがたいだったと思う。
 当たり前なことをCMで気づかされる…。それが情けなく思う。死を意識しない生き方が現実に多くあり、病んでいてもなお意識せずにいられる。だからそういう生き方の人ほど幸不幸にこだわる。幸不幸にこだわるから、必ず死ぬ事を否定し、死を思わない。
 ただ全力で生きよ、全部本気で味わえ、それだけで人生は百点と筆者は言う。それを滝でもお山でもケアハウスでも言うが、なかなか通じないのが現実だ。筆者の主張をこの子の親達は気づいた。失礼に当たるだろうが、子供がダウン症でなかったらそう思わなかったかもしれない。ただ全力で生きれば、毎日がどんなに不幸でも、いや不幸であればあるほどかけがえのないものだと思えて来る。あの親は何よりかけがえのなさを学びかけがえのない愛し方をしたのだとも思う。
 かけがえのないこと、筆者はそれを認識することがどれほど難儀なことか、目の当たりにし続けている。残念な事に、かけがえのなさの意味を分かるのは年齢ではない。若くても分かる人は分かるし高齢者でも分からぬ人は分からない。かけがえのなさの理解は普段の生き方で、それは全力を尽くすか否かによって分かれるだけだ。
 前にこのコラムで書いたと思うが「幸せだが自分の力で生きてみたくて」上京した青年がいた。その青年は自力で学校を出て、そして初めて仕事にありついた。手に入れた給料は四千円だった。それまでのアルバイトより率の悪い金額なのだから、給料などというよりお手当というのが正しい。でもその金を親に届けて礼を言いたくて、往復二万円をかけて帰省して戻ったという。成長した子供にかそのお金にか、話を聞く筆者の胸はつまった。
 それでよいのだ。その熱さを持続できれば必ず夢は叶うのだ。夢を叶えるのは、手段でなくかけ値ない行動で、かけ値ない行動は思いの熱さに基づくだけなのだ。
 教会に縄文研鑚倶楽部というのがある。単に野外活動をし歴史の旅をするのではない。会を発足させたのはこのかけ値ない行動の大切さを自分のものにしてもらいたいがためだった。弥生人の子孫であるのに弥生人を筆者が殊の外嫌うのは、ここに理由がある。ダウン症の子供ではないが、私たちの多くはかけ値なく愛された経験がない。親、ことに母親の都合や勝手な思いで愛されてきた。そして母親たるもの、それを愛情と自負して来た。だから私たちの殆ども子供に対してかけ値なく愛する事がどういう事なのか分からない。
 ○○だから好きだ、◎◎だから愛しい…親子でも夫婦でも理由づけせねばならない愛しかたが殆どだ。でもそれは本来が愛と呼べないものだ。○○でないけどどうしてだか好きだ、◎◎でないけど何故か愛しい、が本当だ。愛しさだけでなく、思うという情感の全てには理由が存在しない。理由はその情感を社会に適応させる為にのみ必要なのだ。だが現実は理由づけできる情感を愛と言い切る。打算と呼ぶべきを愛と呼ぶ不思議さを悲しいかな多くは気づかない。





講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy