(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成15年9月号
  インターネットで知り合って心中をする事件が続けて起きた。身近かでは筆者が滝でかつて預かっていた青年が入水自殺をした。父親が筆者の留守に青年を連れ戻して十年にもなる。やるせない思いと「やっぱり」という思いがあった。怖いから普通なら死ねない。生命保存本能を人は授かっているのだ。簡単に死ぬ不思議を思った。
 「生きる意味は」と問われると「命を授かったから、その命を十分に使い果たす為」と筆者は答える。だがその価値を明確には説明ができない。だが明確に説明しないでも分かる人もいる。そんな人の全ての共通している事がある。それは一所懸命に生きていることだ。一所懸命とは熱っつく生きることでもある。
 生きるのに必要なもの、それは熱意ではないかと思う。筆者には熱意のなさが疑問に思えてならない。今月は熱意について述べる。
 毎年元日の滝打たれには、打たれ初めを記念して色紙を渡すしきたりになっている。いつかこのしきたりを改めたいと思っている。それは、色紙へ滝打たれ参加者の一人一人に合った励ましを書く様に求められているからだ。正直な所、大変だ。今年の色紙の中で『熱さこそ生きる基本です』と書いたのがあった。もらった人はその色紙を額に入れて飾ってくれてるらしいが、この額を見た結構な数の人が、言葉の意味が分からず、どんな意味かと尋ねるらしい。
 生きるイメージを話す筆者のいつも思う事だが、イメージは言葉では伝え切らない。というより言葉に変えたら別の意味になるものなのだ。だから『熱さこそ生きる基本』で、感じない人に説明してたとえ説明できたとしても実は説明できてないのだ。実感とは知ったということで、実感とは境地であり、境地は痛みからしか生まれないものなのだ。いつも筆者の言ってることだ。
 のっけから話が飛んだが、『熱さこそ生きる基本』の言葉に感じない人が結構いること、それが問題なのだ。現実社会に目を向けると、熱く生きることを「ダサい」と表現する人がいる。でも反面、ダサさの代表である格闘競技者をカッコいいという者もいる。
 『熱さ』が分からないのは『熱』く生きたことがなく、熱い境地を知らないからだ。筆者の言うことが間違いであってもよいが、『熱さこそ生きる基本』が少なくても筆者一人だけにとっては絶対に正しい。「どうせ生きるなら熱くなければ意味がない」と大まじめに思っている。熱く生きるとは、自分でプレッシャーを作り、そのプレッシャーと自分とを戦わせる事でもある。プレッシャーで悪ければ拘り・目標でもよい。誰と戦おうとどんな目標を設定しようと戦っているのは自分とプレッシャーに対してなのである。
 だから無目標で生きて行けることが筆者には分からない。無目標であるとその時だけだとしても楽で居心地がよいのである。そして悩まないあるいは悩みを先送りしなければ、無目標にはなれない。逆に筆者からすれば、悩まないことが不安なのだ。生きるとは悩むことで、悩むから心穏やかでなくても安心していられるのだ。
 悩まない人はいない。だが多くは先送りしてその時の居心地のよさを手にする。幸せが居心地のよさを手に入れる事だと思い込んでいればこそ先送りができるのだ。がその幸せは間違っている。
 間違っている人を悲惨と感じるのは、勇気を忘れてしまう事だ。プレッシャーと勇気とは裏表だからだ。現実は勇気を出さなければ自分の居場所がなくなるようにできている。だから引きこもりや集団自殺となる。問題は引きこもり集団自殺と同じ価値観を私達の多くが持っている事だ。幸せにだけ目が行って一所懸命・熱さが分からない人生は悲惨だ。せめて熱さが分かる生き方をしたいものだ。





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