●平成16年10月号 |
NHKの朝の連続ドラマ「天花」についてである。教会の縄文研鑽倶楽部の人々は気づいておいでだろうか。主人公である天花の仙台に住むお爺ちゃんの住所が、泉ヶ岳の麓のいぐねという設定になっている。泉ヶ岳は縄文研鑽倶楽部が前回、鬼ツアーで多賀城へ行った時のキャンプ地なのだ。そんな関係で懐かしく思い、このドラマをなんとなく見たりしていた。 悪口を言うが、主人公を演じる新人女優が全く下手である。表情が決まっている。だから脇役が目立ってしかたのないドラマになっている。おまけに台本が感情を細やかに描きすぎる。今時娘離れできない父親とそんな父親に細やかな心遣いが出来る娘・・・などはあり得ない。というより、そんな家族関係の設定そのものが嘘なのだ。 だが一つだけ強烈でまっとうな主張がある。それは泉ヶ岳に住む爺ちゃんがつぶやく言葉だ。 孫に対しても子に対しても「もっと苦しめ」と言う。これは孫を苛めたいのではなくて、人生の一切は自分が担当するものだから懸命に生きたら苦しんで当然という、現代人の忘れかけている事を明確に提起している言葉なのだ。 人生の栄養は苦労しかない。何度もこの欄で書いているが、幸せをどんなに積み重ねても単なる幸せの積み重ねでしかなく、大きな便利にはなるが大きな幸せにはなれない。ましてや幸せの積み重ねが人生の栄養にはなることはない。 かといって何でも苦労を背負いこめば良いのでもない。自分をやたら責める事が人生の栄養になるのでもない。要らぬ苦労を背負いこむ事は苦労を避けて通る事と同じで、単なる我がままでしかない。 修行・修行と鬼の首を取ったように言う筆者ではあるが、筆者と共に修行している仲間の中には、修行をイコール苦行と解釈する者もいる。修行イコール苦行について言えばお釈迦さまも同様だったようで、苦行を諦めた時に悟ったと言われている。つまり苦行から悟りは得られなかったのだ。 だがそれでも人生の栄養は苦労にしかない。人間を育てるのは幸せとか趣味とか楽とかではない。幸せや趣味や楽は満足を育てるが感性を育てない。感性を育てないから情操も育たないし、感性も情操も無いから当然に人間性も育まれない。現代は幸せや趣味や楽から情操が育つが如き錯覚を持つ人も多い。だがそこから育つものがあるとしたら自己の勝手な満足でしかない。自己の勝手な満足をして情操などと言うのは恥ずかしい。 人間を育てるのは単純に苦労なのである。但し、苦行と苦労とは大きく違う。苦行は日頃の苦労をしっかりと消化できていなければ存在しえない。単に自分の満足で自分を苦しめているだけでは何も開けないのだ。繰り返すがそれをお釈迦さまは証明した。 苦行じゃない苦労、つまり日頃のありきたりの苦労こそが人間性を養う。日頃の苦労こそが悟りの基本だとお釈迦さまも示した。 人間はどんなに悩もうと楽しかろうと何を悟ろうと宇宙の肥料でしかない。肥料とは自分が宇宙の中心でないという事だ。それでいて我が人生は常に自分が主人公なのだ。親でも子でも身代わりになって行動出来るがそこからは便利以外のものは生まれない。自分がやるべき事を代行してもらって自らが傍観する事を多くは幸せと呼ぶが、そんな幸せから安心は生まれない。人生は常に自分を主人公にし現場というありきたりの苦労に心身を置くしかないのだ。 日頃の苦労は神が授ける。それは満足や便利と人生とが全く違うものだからだ。満足や便利は政治が担当すれば済む。だけどどんなに政治が満足・便利を具現できても、個人は現場で雨風に晒されてこそ人生たりうる。言葉を代えれば今から逃げるな・今を選ぶな、という事だ。本教ではそれを「自己開間」の修行という。 |
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