(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年11月号
  プロ野球ではいろいろな事が起きた。ことに「オレ流」落合中日の優勝とイチローの大リーグ新記録には共通したものがあったように思う。そしてこの共通したものについて言えば、今回のアテネオリンピックでの復活柔道についても言えることだったように思う。
 その共通したものとは当たり前のことの復権であり、当たり前のこととは、生きるのは自分であって、だから誰よりも自分に厳しく当たれるのは自分だということだった。つまり当たり前のことの復権とは結果とか願いの充足という生活することではなくて、結果とか自分のこだわりを超えた精神の世界の復権で、言葉を変えれば「きっちりと強く生きる」ことの復権でもあったと言えるのだ。
 「オレ流」とは言うが落合監督は、どの球団より実はオーソドックスな野球をした。点を相手に与えず、少しの得点機を活かす野球だった。だから「オレ」流とはいうがどこの球団よりオレという我がなかった。
チームには鉄壁な守備が必要だったがその為の猛練習を選手に課したりはしなかった。「うまくなりたかったら納得するまで練習をやれば良い。怒ったって練習しない者はしない」の一言とだった。
そして猛練習をするための条件整備をするが管理職の努めというスタンスを貫いた。後は「機会均等」の原則を以て選手に発表の場を与えた。練習は自分を裏切らず、裏切るのは自分でしかない。
だから機会均等の発表の場で結果の出せない選手は場末に追いやれた。そしてそれを「プロ」と落合は呼んだ。
 落合のやったのは目的意識の高揚ではなく、生きる意欲・自己意欲の高揚だった。この点、勝つための目的意識だけしか持てなかった他の五球団は反省すべきだ。年間チーム本塁打新記録を作っても優勝に及ばなかったチームがあったが、このチームには勝つための練習はあってもうまさを極めるための練習という発想はなかった。筆者が良く言うように「回りや結果による評価ではなく、自分としてどうなのか」ということが常に自分の中心にあらねばならないのだ。それが生きる意欲・自己意欲というものだ。
 自己意欲という点ではどこぞの滝打たれの会の世界に似ていると思う。だがどこぞの会は今でも「先生が怒らなくなったから良いね」という考え違いの人もいる。怒っても良いが「怒ってみたって始まらない」のだ。結果は正直で妥当なだけだからだ。自己意欲を高く強く持つことは一人一人の義務だ。だから考え違いの人は悲しい。
 イチローもそうだ。彼は恵まれた資質によって新記録の達成がなった。だが彼の最も恵まれた才能は体力的な資質や野球センスではなく、努力する事と努力できる事に感謝する事の二つにあった。そしてこの二つは言葉を変えれば自己意欲が高いということになる。
 彼のように資質に恵まれた者の自己意欲は、普通の者よりもっと細かく高く強く持てる。だから数や結果という目標にはならない。というよりそんなものは目標と思えないのだ。我々普通の者は数のクリアーという結果を求めて努力するが、彼にあるのは「どこまで上手くなれるか」だけなのだ。つまり数字の目標は彼にとっては単に努力の経過しか意味しない。彼にとっては我々が言う結果とは経過でしかないから「良い時もあれば悪い時もある」となる。良し悪しはどうでも良いことで、良いなりに悪いなりに課題を見つけ具体的に努力をして行く。高い自己意欲とはそういうことなのだ。
 がイチローと落合が偉大なのではなく生きる正当な姿なのだ。自己意欲を高く持つことは命を授かった者の義務、つまり我々の生き方の当たり前でしかない。そして今回のイチローや落合に感銘を受けた人は、この義務を果たす才能があることの証明といえるのだ。






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