(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年3月号
 「今年の夏登拝には事故がなければよいが」と思った。昨夏の事だ。登拝の準備で皆で作った「大麻(祓う道具)」を見て思った。登拝は修行なのだから大麻に限らず皆で準備して当然だが昨年の大麻作りには惰性が多く見られた。
 皆は熱心に作ってはいた。ができあがりを見るとポイントが押さえられていないものが多かった。同じ指導を受けながら、どこかで手前流儀となったのだ。熱意はあるが手前流儀…それを惰性というのだ。その惰性を一番に否定せねば残念なことに修行にならない。
 間違いには色々ある。どんなに真剣に問題分析をしても間違うものだ。分析が間違うのは人間に常で、大した問題ではなく進歩の一過程なのだ。一番マズイのはこの惰性で、間違いの根源なのだ。
 正式には、惰性が基本である失敗を間違いとは呼ばない。怠惰と呼ぶべきなのだ。怠惰は普段の生活態度が出るだけだ。だから修行には惰性があってはならない。ところが昨年の大麻作りにはそれが見えた。一昔前の筆者なら「今年のお山は休む」で終わっただろう。
 皆一生懸命ではあったのだ。それでも惰性は入り込む。惰性に陥らないのは不可能でもある。でも惰性を目の仇にする意識はもち続けられる。惰性に陥るのは手前流儀を持ち出すからだ。逆に言えば手前流儀を排除することが惰性にならない秘訣でもある。だが現代社会は手前流儀の解決をして「幸せ」と言う(それは幸せなんかではない。都合よいとか楽とか言うのが正しい表現なのだ)。
 どこでもいつでも手前流儀を押し通して幸せの時代だ。筆者の言葉で言うならば、どこでもいつでも惰性の時代なのだ。だから、モノが売れなくてショゲかえる社長が多い。だから、体調でも仕事でも少し不調だと精神を病む。そして自分でなく社会環境や仕事に原因を求め、環境や仕事が順調になれば元気になってゆく。だが順調な時に元気が出るのは責任を自覚できない人のやる事で、ハナから社長失格なのだ。何よりいつもの慣れた過保護な場所にい続ける軟弱な自分に原因がある。いつでもどこでも手前流儀で生きて来たのだから軟弱になるのも当然だ。
 繰り返すが軟弱な自分は惰性が作る。問題はどうやって惰性を防ぐか、だ。それは簡単なことで、チョイスしないだけでよいのだ。何をチョイスしないのかというと現実の一切をなのだ。が人間には保身本能があるから苦より楽な方を選びたがる。本能として苦を避ける。だから惰性に陥らないのは簡単な事というが、保身の本能が有る限り惰性に陥りやすいようにできてもいる。つまり惰性に陥らないのは難しい問題なのだ。
 問題はそこだ、保身本能とどう距離を空けるかだ。それには命を私有することを止めたらいい。命の私有を止めたらもっと広くて一回こっきり(一期一会ともいうが) の連続の人生が待っている。
 滝では、命の貴さを知らない人ほどピンチにうろたえる。更に分かってない人はうろたえる事を隠す。だからいつまでも同じ自分に停滞する。同じ自分に停滞するから(それが惰性だが )、同じ環境でしか力を発揮できない。何せ万物流転が人間社会なのだから同じ環境などが続く訳がない。なのに同じ環境でしか力を発揮できない生き方を多くは幸せと間違って呼び、ひ弱とか傍迷惑とは呼ばない。
 万物流転の人間社会を生きる為に惰性を慎むのではない。惰性の根源である命の私有を止めると人生が自分らしく素晴らしくなるからなのだ。なぜ素晴らしいのか、それは神がそれぞれにあった現実を下しているからだ。自分には自分の命にあったオリジナルが授かっている。神が下す大部分は苦しい現実だが、同時に素晴らしい人生へのシナリオでもある。自分が変わればそのシナリオに会えるが回りを変えても出会えないのだ。




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