(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年4月号
 筆者の投稿が掲載された。 『教育と学問は全く別だ。学校は教育の場であって、教育とは人格形成である。人格形成は失敗を認めその失敗を乗り越えさせることにある。だから失敗した人や不出来な者を排除してはならない。排除せず内部更生に努めるのが学校であるし、内部更生の義務とは取りもなおさず教育の自治権をいう』という内容だった。
 筆者の名が変わっているために投稿名を電話帳で引いて住所を引き出し、筆者に共感を訴える人もいた。だが多くは「難しくて分からない」という意見だった。
 ひがんで言うのではないが、確かに筆者の文章は悪文である。また制限された字数で主張をせねばならないのでより悪文になったとも言える。
 そんなに分からない内容だっただろうか?。そんな事を思っているうちに、筆者の主張が分からない人に共通点があると気付いた。その共通点とは自分を当たり前の立場に置くのではなくて、楽な立場に置こうとしたがる事だった。
 何よりも御身第一で、自分が楽な立場にいつつ幸せを達成する為には邪魔者の排除は当然で、幸せの達成を以て人生の達成と錯覚する。幸せの達成と人生の達成とは本来が無縁なのに、その事が分からないのだ。人生の達成には自分らしさの探求確信のみだけが必要で幸せの達成とは無関係なのだ。
 不出来者を排除していることを疑問に思わない人には筆者の主張が理解をできなかった。御身第一の思いが幸せの達成に向くのは当然だが、何の意味も持たない。だから社会が結果主義・効率至上主義に凝り固まって疑問に思わない。
 逆に滝打たれに集まっている人や教会の例祭に集まってくださる人は、幸せの達成と人生の達成が無縁である事が分かるから、筆者の主張は容易に理解できた。
 教育が失敗の積み重ねであることは明白な事実だ。だが現実は失敗しないで結果を出させるようなシステムになっている。こんなシステムは人間の成長を考えたらあり得ない事だと断言できる。
あり得ないのに失敗者を排除する。その排除を指導とか愛情だとか言って教師も親も行っている。
 教育が失敗の積み重ねであるのは、知識が痛みだからだ。例えば私達に永遠の命があったとしたらどれほど真剣に悩むだろうか?。例えば痛みが私たちになかったらどれほど経験から学べるだろうか?。命と五感が危機に晒されるから私たちは自分の追及を達成できるし、それがどんなに不幸と思われても自分の人生を達成できる。
 死ぬことや痛いことは不都合である。だが色々な不都合や五感の違和感は自分がしっかりと生きて行ける糧を生んでくれる。なるほど本教の教えの『知は痛み』は真実なのである。
 問題はこの『知は痛み』を省略して学んだと錯覚する事にある。だから失敗せねば人間は育たない事も分からない。人間個人の声も皮膚も五感のすべては痛みによって磨かれて行く。痛みとは失敗である。失敗して生きて行くなら、いやでも磨かれてしまう。五感のすべてはやがて心の形成・自分らしさの確信につながってゆく。
 痛みを省略したら絶対に学べない。約束事の記憶に過ぎない。社会で言う頭の良い人とは単に記憶能力の大きい人を言う。約束事の記憶を社会では物事を覚えたと言い、物事を覚えた事を学んだと解釈している。だが記憶がよいだけだから、情報の活用の仕方に欠ける。また情報の結末がどうあるべきかの配慮も生まれない。
 自身の探求の為に私達人間には痛みが授かっているのに、痛みを避けて幸せと思う。痛みを避けて幸せと思える人は邪魔者を平気で排除する。が排除して痛みがない分、自分らしさの探求ができない邪魔者を排除する人は己が人生をも排除している事に気付かない。





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