(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年5月号
 おかしいじゃないかと思うことがまたまた起きた。イラクで日本の民間人三人が人質拘束をされ、そして解放された。問題はこれをどう評価するかにある。個人の重さの理解の違いを思った。
 総理は三人に批判的だった。多くのマスコミもそれに同調した。回りに迷惑をかけたから良くないのだ、という。しかも救出にいくらかかったと金銭の額まで出してだ。金銭の額で我々の多くも彼らを非難しだした。
 おかしいじゃないか…と思ったのは筆者一人だろうか?。回りに迷惑をかけたから良くないというが、イラクは自由に渡航できる国だったのだ。国の取り決めで渡航禁止になってなどいないのだ。
 あからさまに言えば海外旅行に行って拉致され政府に自衛隊撤退の条件を提示するための人質にさせられたのと同じだ。彼らの救出に何億円かかろうがそれは彼ら三人の罪ではない。イラクを渡航禁止の国にしなかった政府にこそ責任がある。その責任を棚上げして迷惑の感情を出す総理やその感情論を吟味しないで掲載する新聞やテレビの態度はいかがなものか。
 もっとも彼らは日本政府がイラク渡航を禁止にしても現地へ行ったと思う。決心とはそういうものだ。それが法律であれ暴力であれ曲げてしまわれるなら決心ではない。彼らがそこまで決心してイラクに入国した事と政府がイラク人から条件を突き付けられるのとは別の事だ。たまたま彼らだっただけで、あるいは現地の外務省職員が人質に取られたかもしれない。現地の外務省職員が人質だったら政府はどうしただろう。総理は同じように迷惑の感情を表しただろうか?。民間人が拉致されたからこそ政府は体面を、より保つことができたと感謝すべきなのだ。
 それにしても、彼らが自ら望んで危険な土地イラクに行ってボランティアに当たった事をその程度でしか評価できない事をもっと異常に思わねばならないのではないかと筆者は思っていた。この太平楽な現代日本で、命を賭してやることを持っている人を英雄と呼んでも良いはずだ。案の定、外国ではこの三人は高く評価された。
 その英雄を「回りに迷惑をかけたから良くない」の理屈で非難した日本人。非難されねばならないのは、彼らを非難した側の人だ。
 回りに迷惑をかけることは良くない。だが、回りに迷惑をかけない人間なぞ存在しない。一切一人のはずの人間が社会でしか存在し得ないのは、迷惑をかけあえばこそなのだ。だから回りに迷惑をかけなければ…という理屈は自分の決心を貫く事から見たらはるかに低レベルのことだ。はっきり言うなら自分の大切さを知らない人の口にする言葉なのだ。
 それほど日本人には自立というテーマが希薄だ。同じ自立という言葉を使ってはいてもせいぜいが経済的な自立しか意味しない。
 今回でも「覚悟してイラクへ行ったのだから仕方ないです」と言えた父親が一人しかいなかった。厳しいことを言うが、少なくても親兄弟は「仕方ない」に終始して間違っても「助けてください」と言ってはならなかったのだ。
 「仕方ない」は冷たいようだが優しく、「助けてください 」は優しいようだが実は冷たい言葉なのだ。優しさ・冷たさの基準は相手の人格を認める事の有無にある。本当に人格を認めるなら「仕方ない」が正しい。だが人格を無視した「助けてください」の言葉を優しいと解釈しているのが現代日本なのだ。その程度にしか自立の評価ができないのは悲しいが…。
 人格を都合で評価してはならない。個人が意志を持ったなら社会と対立して社会に迷惑をかけるか社会にいじめられるかしかないのだ。社会に生きるとはそういう事だ。自立とはいつも闘っていることでもある。その闘いとは自分の裡と社会との二つであるのだ。





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