(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年7月号
 何をもって被害者というのだろう?と思いやるせなくなる。『オレオレ詐欺』のことだ。見知らぬ老人にさも本当の孫であるように電話し、緊急の金を振り込ませて詐取する...それが『オレオレ詐欺』だ。(筆者を含めてだが)金をうまく使えない者は金をもっても意味がないとつくづく思うと共に、自立という意識を持ち続ける必要性を思う。
 今回の事件だけでなく、今までも色々な詐欺事件が起きて被害者が多く出た。そしてそんな詐欺事件では、被害者はすべてが善良な市民、という図式になっている。だがそのような考え方は改めねばならないし被害者の味方が正しいという間違いも改めねばならない。
 金で歓心を買おうとするから騙されるのだ。また騙されて被害者になったことを恥ずかしいと思ってしかるべきだと筆者は思う。冷たいが、金で歓心を買おうとする人をぶざまだとどうしても筆者は思ってしまうし、犯人以上にそんな被害者に腹が立つ。死人を鞭打つつもりはないが、筆者の様に被害者を敢えてはっきりと非難するマスコミがあってもよいと思う。
 今回の「オレオレ詐欺」は、高齢になっても自分で自分を守ることのできない人が多くいることをはからずも証明した。端的にいえば、孫が可愛いのではなくて自分の孤立しない立場が可愛いのだ。孤立しない立場とは自立への意欲が薄いことでもある。いくらうまく緊急の金が必要だと説明されても自立への意欲が強くて他人と自分の一線が明確であれば、初めから騙されることはないのだ。
 話しはそれるが、海外旅行で盗難に「会う」のは日本人が一番だそうだ。それだけ日本の警察が優秀で、だから優秀な警察力に守られている習性のまま治安の悪い外国に行ってしまうから盗難に遭うのではない。関西大地震の時にこの欄で書いたと思うが、自分に無関心だから日本には犯罪が起きにくく、自分に無関心だから犯人にも被害者にも曖昧でいられるのだ。第二次大戦の敗戦時にはむしろ普段の日本より犯罪が起きなかったと聞く...。そんな不思議さの原因はここにある。自分が曖昧だから回りの変化を心情にしか理解できないのだ。そんな日本人の特性は戦後も続いていてだから海外で盗難に会う。遭う、のではない。自ら、会ってしまうのだ。
 自分への曖昧さは自分を守る意識の弱さにある。自分を守る意識とは自立の意欲である。自立への意欲が弱いから、関心を金で贖って何とも思わない。オレオレ詐欺の被害に遭わなくても、自分の年金や小遣いを孫に与えて鼻を高くしている高齢者は多い。金の使い方はその人の価値観の現れだ。その価値観というものは自立の意欲が明確でなければ生まれない。
 実際に金で回りの関心を贖えたら安いものだと思う。確かに安いものだ。だがこの考え方には明確な間違いがある。その間違いとは、周りからの関心は初めから金で贖えるものではないということだ。だから仮に自分への関心を金で贖えたとしても「その時だけの良い人」以外に何も意味も持たない。ただ金をばら蒔いたに過ぎない。
 自分の為に金をばら蒔いた暁の詐欺なら、自立性という点でまだ救いがある。だが事件はすべて孫のためである。孫が本人の努力で解決すべき事柄に金を無心されてそれに応じる...孫がかわいそうなのではない。自分が助けの主人公になりたいだけだ。それほどまでして良い爺婆になりたいものか、と筆者は思う。かわいそうなのは孫ではなくて、金を用立てて良いことをしたと錯覚する爺婆の自立性の無さなのだ。だがそんな人は自立性の弱さを指摘されても意味が分らない。逆にだから不必要の援助ができ、だから騙される。
 自立・孤立は長い積み重ねがないとクリアできない。それを金で贖おうたって初めから無理なのだ。





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