(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年8月号
 登山講にIさんなるひとがいる。三五年位の付き合いをさせていただいている。筆者よりずっと年長だから生意気な言い方になるが、その間ずっと好ましい思いを抱かせてもらっている。
 Iさんに対する好もしい思いが何なのかはIさんの写す写真を見れば分かる。Iさんは毎年登拝のスナップを担当してくださっている。他の人を悪く言うのではないが、Iさんの撮った写真には優しさがある。だれもまねができない優しさだ。写真の構図を意識して撮るから優しさが表れるのではない。そんな技術上の事ではない。要するにIさんの人間性なのだ。
 写真と言えば、十五年位前、新進写真家が東京から滝打たれにやって来た。なぜ滝なのかとその理由を問うたら「写真には『気』が写るから、気を操るようになりたい」と宣うた。気を磨かねば、気を操るようになっても意味が無いのにだ。気を操るようになりたいと、本人が真面目に言うほどその本末転倒さに苦笑してしまったが写真に『気』が写るというのはどうも真実である。気とは撮る人の思い・人間性なのである。同じ風景を撮っても各自の写真には各自の気が写ってしまう。だからIさんの写真にはIさん独自の気つまり優しい人間性が投影されるのだ。
 Iさんの気=優しさIさんの人間性の風雪の結果である。どれほどその優しさがうらやましくてもその風雪までは真似できない。よしんば風雪を同じにできたとしてその受け入れ方までは真似できない(風雪と受け入れ方とを同じにして繰り返す事を修行というのであるが)。 ところが多くの人は新進写真家のように、結果を出すための手段としてシュギョウなるものを行う。だがそのシュギュウは生業を身につける修行であって個性を磨く修行ではない。修行は永遠に修行たり得ないのである。
 「健康に良く心身に良いのは当然だが、滝に打たれたって何も変わらない。普段の生活態度が変わらないなら滝が持つ良さは意味を持たない」と滝湯でいう。だが多くは滝に打たれれば自分が変われると錯覚している。はっきり言うなら、そのように錯覚するのは生き方を錯覚しているからなのだ。
 その錯覚は自分中心であることに根本がある。
そう言うと多くの人は他人に迷惑をかけてないから自分中心ではないと言う。そうではない、生き方の錯覚とは「こうしたら得だ」とか「それは不都合だから無視する」とかいうように自分で今を取捨選択することにある。取捨選択はやり終えてからのものなのに、行動の前にやる・やらぬの判断を自分でしてしまう。そこを多くは疑問に思わない。
 佐渡からインドネシアに行った曽我ひとみさんという人がいる。決めつけて申し訳ないが、あの人は薄幸の星の下にある。拉致されたのに(恐らくアル中の)父親から蒸発したと思われ、拉致された北朝鮮では日本人ではなく親子ほど年齢の違うアメリカ人と結婚し更にその夫は戦争犯罪者として扱われる立場の人で、だから恐らく日本では住むことができない…。曽我さんの不運は書き切れない。
 皆不都合より都合良い方を好むから不運な運命に柔順ではいたくない。でも曽我さんのように運命は勝手に人を弄ぶ。人間は運命に弄ばれるようにできている。不運とか失敗は恥ではない。弄ばれるから人生を味わえる。神は幸福になれと我々に望まない。ひたすら生きて人生を味わえとしか望まれておられない。だから全てはひたすら生きた果てに授かるものつまり結果なのである。その結果を目的や手段に据えて多くの人は生きる。その判断こそ自分中心と言うのだ。その証拠に、どんなに成功しようと成功という時たまの幸福にしがみついて人生の醸しを避け幸不幸以外に何もない人生に変えてしまう。…曽我さんの写真にはどんな気が表れるのだろうか。





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