(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成16年9月号
 御嶽登拝が終わり足慣らしも終わった。毎年の事だが約半年の期間だ。脚力を増しさえすればよいという次元ではない。だから足慣らしという言葉は不適当だと思ったりする。我々の場合は足慣らしではなく鍛錬なのだ。
 四つ足の肉を断ち、付き合い以外のアルコールは断つ。食餌の制限をし、ひもじい程に食べる量も制限する。タバコは止められた筆者だが食量を減らすのは存外苦しい。そんな事をして体の毒を排除し、タンクに入れた三十キロの水をかついで心筋に負担を強いる。膝や足首の関節に負担をかけたらおしまいだから走らないで速歩する…この鍛錬法が間違いであっても良いのだ。最大の問題はこの緊張を持続するエネルギーを自分の裡に湧かせ続けることにある。勿論生活も仕事もこの緊張に入る。生活も仕事もホン投げて鍛錬するなら全く意味が無くなる。鍛錬は道楽になり下がる。筆者にとって登拝の足慣らしは滝打たれを継続して来て緊張を持続してきたからこそ、できる事なのだと思う。
 滝打たれもそうだが、持続するためには膨大なエネルギーが必要だ。理由はともあれ滝打たれを止めた人は普通の人に成り下がる。厳しい言い方をするが、なるのではなく成り下がるのだ。それは問題意識の希薄さに表れてくる。人間は捨てなければ何物も得られず持続するためには膨大なものを捨てなければならない。捨てるものが大きければ得るものも大きくなる。この場合の大きいとは心への衝撃という意味だ。大きな衝撃ほど自己は確立させられてしまう。
 滝を止めたらこの継続への努力をしなくて済む(実際は継続への努力は滝を止めても永遠なのだが)。そしてその分、捨てるものが少なくなり、更には捨てることが勿体なくなり、その結果現実をまるまる受け入れるという判断基準が無くなる。都合の善しあしにすり変わってしまう。都合の善しあしの判断基準では自分の裡に生まれるものがない。オリジナルという言葉がその人から消えて行く…だから正に、成り下がるのだ。
 だから御嶽登拝を『普段の生活の発表会』と言う。発表会だから登れても不満な場合も登れなくても満点の場合もある。御嶽に登る・登れないは結果であって、勝負は入山する前についているのだ。
 登れて満足という総括は御嶽登山であって御嶽登拝ではない。登拝は自分の発見が根本だからだ。
半年間もそんな緊張を要するなら人生の半分は緊張の連続で、だから人生がつまらないと思う人もいるようだ。楽して得して幸せという価値観の現代人には結構そんな人が多くいる。だが、さにあらずなのである。
 自分を苛め追い詰めた分だけ、本当の自分が残る。自分を追い詰めて追い詰めてその結果、どうでも良い自分が流れて行き、より自分らしい自分が残る。より自分らしい自分は常識や法律や流行などの回りの価値観に汚染されて不自然になっている自分ではない。だから安心していられる。安心は何より自分の尊厳を思い知らせる。
 修行の最終到達地点は自分らしさを確信することだ。確信は親や回りから愛情という言葉で注がれた汚染されたる価値観を、色々と流し去ることでしか生まれない。それは自分を追い詰める事でしかできない。
 神は、自分を追い詰めるように仕向けたくて不都合な現実を授けてくださっている。現実は都合良いことが百の内一つしかない、と言うのはこの故だ。だから我々の半年の足慣らしの鍛錬なぞ生ぬるいのだ。神の授ける現実こそが最大の鍛錬なのだ。その現実を受け入れてただ真剣であれば良い。真剣であれば充実こそが本当の楽しさである事も分かる。楽しさが楽することという人生では必ず行き詰まるし、どこかの国の様に一層ガサツに楽を求める事も無いのだ。






講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy