(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成17年1月号
 教会へは色々な相談が持ち込まれる。多くは今・たった今の解決を求める。そんな刹那の解決を求めての相談にはこたえようがない。
 心配事は病気に似ている。病気は一朝一夕ではできない。その人の中で作られる。何年もかかって心配事の種が大きくなって事件という花を咲かせる。大きくなって行く時にこれといった矛盾や不都合が起きない場合、病気の種が大きくなっているのに気づかない。
 そして作られた病気が姿を現したとき、慢性病がそうであるようにどこに原因があるのか分からなくなっている。体のすべてが病気の原因とさえ言えてしまう。これと同じで心配事が形をもったとき、解決の糸口がどうしても見えないほどに、心配事の種は慢性化してしまっている。
 さて、病気が起きる原因には二通りある。素因と誘因である。素因とは生活習慣や体質や慢性な状態を言う。つまり自分の中で培って来た原因をいう。対して誘因とは病気が発症するためのキッカケを言う。
 病気は素因と誘因が重ならねば現れない。素因も誘因もそれだけでは大した症状を起こせない。素因は知らぬ間に大きくなって行くが、大きくなってもさしたる不都合を起こさない。誘因もそれだけではさしたる不都合を起こさないが、二つ重なり合うと入院し果ては死に至る。
 病気がそうであるように、私たちの心配ごとも知らぬ間に大きくなって行き、ある日何かのキッカケで表面化し、解決が見えず、こじれ、果ては自滅に至る。
 病気の場合は明確で、病んだときに誘因ばかりを目のカタキにして、素因という存在には気づかない。だが病気の本体は素因なのであって、目のカタキにされる誘因はあくまで発症のためのキッカケなのだ。
 病気の本体である素因は生活習慣や体質や慢性な状態という自分そのもので(正確に言えば自分らしいを錯覚している自分そのものに)ある。目のカタキにしている誘因を排除すれば一時的に病気状態から解放される。だから病気が治ったと錯覚したがる。だがそれは錯覚で、後で再発するか、別の部位に別の症状で発症する。いつまでたっても治らないのは、勝手に治ったと錯覚しているからで、治るのは病気の本体である素因を無くした時しかない。それなのに私たちは目のカタキにしている誘因だけを問題にする。
 心配事も同様で、今いまの解決を多くの人が求める。しかし今いまの解決は病気で言えば誘因の排除に過ぎないから一時的な解決にしかならない。平たく言えば一時避難でしかない。なのに多くの人はその一時避難を以って解決したと錯覚する。
 一時避難は一時避難でしかなく根源的な解決ではない。
むしろ病気と違って、解決したという錯覚によって我欲が強くなる。根源的な解決は我欲が見えるのに、だ。
 教会で行う宗教的な儀式や勇気づけは自分の中の素因改善のキッカケでしかない。なのに我欲の達成のためには神を手先に使って解決したとする。だがそれは解決ではなく、自分の素因の浄化でなく拡大に過ぎない。そんな錯覚をする人は「得した」を解決のキーワードにしてしまう。そうではない。
 今いまの解決より十年後のありうるべき自分を思う事だ。だがそれは十年後になっていたい自分ではない。そうすると今いまの解決はキッカケでしかなく、解決してもしなくても本来はどうでも良いものだと気づく。何十年もかかって我欲が培って来た自分らしくない間違った生き方は今いま解決出来る訳がない。解決には時間がかかるのだ。だが病気で言う素因を排除して本来の自分に立ち戻る解決は楽しいし快感の連続となる。ありうるべき自分を十年後に実現しようと思えば意外と楽なのだ。







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