(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成17年10月号
 詰め込み主義の行き過ぎを反省した国がゆとりの教育というものを打ち出したが、その為に学力が低下したという結果が出た。文部大臣がゆとりの教育を見直すと発言し、ゆとりの教育が廃止になりつつある。だが現実を見つめてみれば学力世界一でなくなっただけで、まだ世界のトップクラスである。何より学力トップの価値がどこにあるのかの考えが見えてこない。学力が大事と言うが世界有数の高学力だった時の日本だって、学問は出世のための手段としか多くは活かせてなかったのだから。
 教育問題では、学問と人格形成のどっちを優先するかという事が曖昧であるのに、それに疑問を持たない教員が多いといつも思う。疑問に思わないなら教員が資質の無いと言える。教員の資質の無さとは心の動きを理解できないという事であり、生徒や教員同士の管理一辺倒に疑問を持たない事でもある。この資質に欠ける教員の問題がゆとり教育より大きな問題だと思う。
 ところが世のPTAの多くもこの矛盾に気付かない。それだけPTAも学力と人格の優先順位については曖昧で、そんな親は我が子に管理を強制している事に気付かず、更には愛情と錯覚している。
 教員が管理という視線しか持ってないことは学校での事件を見ると良く分かる。ある小学校で起きた教員殺傷事件で犯人は「小学校でいじめにあったとき担任の先生は助けてくれなかった」と動機を述べた。が、当時の担任は「いじめの記憶がない」と答えた。問題はここだ。なぜ「いじめに気づかなかった」と言えないのだろう。また最近、子が両親を殺した事件では「犯人の生徒は普通の生徒で凶行に及ぶ動機を持っていたとは思えなかった」と学校では言っていた。だが「普通の生徒で安心していた」という発言は教師として間違いだ。自我を持ち始めた中高生の生活態度が普通であったとしたらそれ自体が異常なのである。その異常を良い生徒と理解してしまえた事は教師としては不明なのだ。管理する視線しか学校には無いから、生徒の心が見えない。形にはまっていれば良い生徒という考え方は学校だけでしか通じない理屈である。この事に発言の多くの教師は気づいていない。軽い例が服装管理だ。意味のない管理と生徒は知っているから規則スレスレの服装をする。意味が無くても学校が躾と考えているなら服装はきっちり強制すべきだ。躾でないならば自由で構わない。躾とも管理ともつかぬ指導をしていて疑問に思わない。だから生徒はそんな教員を信用しなくなる。管理する事しかないから教師は生徒の心の信号が見えない。信号が見えなくて何を指導するというのだろうか。
 教育は生身の人間の問題だから手落ちがあって当たり前だ。生徒一人をすら理解できなくて当たり前なのだ。だから教員に完璧を期待するものではない。しかし、手落ちがあった場合に手落ちを自ら認める事が教育なのだと思う。
 指導という名のマニュアルに則った管理を生徒に強いている姿が今の教育であって、ゆとりなどとは初めから無関係なのだ。だがマニュアルで生徒を括る事も、手落ちをなくする為にマニュアルを用いる事も共に無謀なことなのだ。
 日本の教育は相手を信用しないことから始まる。結果だけを重んじる稲作文化では相手に疑心暗鬼になるのも仕方が無いのかもしれない。私達は悲しいかな、先祖代々その様に信用されず管理されて学校でも家でも育てられて来た。
 教育は手落ちだらけのもので、だからこそ手落ちを乗り越えて行く教員と親の熱意が問われる。
国が定めた教え方への工夫もそこから生まれる。熱意こそが教員や親なるものの最低限の資質だ。この資質の問いかけを親も国も行うべきだ。いや親こそが熱意に目覚めねば国の教育は開けないのだ。



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