●平成17年12月号 |
他県の学校での事だ。生徒が竹を投げあって遊んでいたら誤って相手の生徒の目に当たり意識不明となった。筆者の定かでない記憶では十一月十六日の事だ。 この事件をテレビのキー局全社がニュースで全国放送をした。一方、テレビのキー局全社が全国放送した事件を新聞各社は沈黙して掲載しなかった。立派だったのは新聞社の側であって、それは元々この事件が全国放送される性格でないことがらだったからだ。 事件とは言うが、誤って起きた事故であって故意なる事件ではない。その様な偶発事故を全国放送するテレビ局の判断基準が私には理解できない。放送局は事故当事者である生徒の人格を無視した事に反省すべきだと思う。 報道関係者は、出来事が事故であるか事件であるかその区別を事前に想定できていなければならない。公共の電波とは彼らのよく言う言葉だが、そうであるなら尚の事、その公共物を扱う責任が曖昧であった事を今回は反省すべきだ。 故意に起こした「事件」の場合でも、結果だけを見て犯人の人格を踏みにじっている事がよくあるが、大切な事は故意なる事件を起こすに至った経緯への考察・考証である。盗っ人にも三分の理というがその考察のない報道は世間話と何も変わらなくなってしまう。 今回の場合は、故意ではなくて事故だから、なおの事だ。なのに必然のない報道で当事者の生徒の将来を大きく変えようとしたのだ。 生徒の人格の尊重という点に関しては、学校の態度が一番情けなかった。誤っての事であっても、当事者生徒は相手生徒を失明させたのだから、この事故を一生引きずって生きて行かねばならない。だから被害者・加害者両者の心のケアが最優先されるべきだった。 だから、学校はマスコミの取材を拒否して当然だ。拒否するというより、マスコミの取材に値しない。そっとしておいてほしい出来事である事を主張すべきだった。それが今回の事故の考証に基づく正当な事であり、教師の生徒への当たり前の愛情であり、信頼の基本のはずであった。 学校は生徒が失敗を犯して成長する場だ。生徒・学校に限らず、人格成長には失敗が必須である。失敗のない成功はそれがどんな大きな成功でも人格の成長を生まないものだ。その人格の成長を健全に行う為に失敗を必要なるものとし、校内だけのルールでその失敗に厳しくあるいは優しく指導して行く…。だからどんな故意の事故であっても警察の介入は拒否すべきだしマニュアルの指導が学校にあってはならない。人格成長にかかわる指導は全て個別のものだ。 個別の指導を行う事が学校の自治権であり、人格形成の為には個別指導が義務となるのである。 TVキー局と学校は普段から教育の自治権というものを意識していなかったと筆者は思う。意識していれば放映はしないし、放映した事に学校は猛烈なる抗議を行えたはずだ。学校管理者も報道関係者も己れの不明を恥じるべきだ。 己れの不明は自分の立場を守る事に何の疑問を思わない普段の生活から生まれる。人間は情より常に立場を優先すべきである。この場合の立場とは理想と同義で居心地やこだわりを意味しない。しかし社会では居心地の良さやこだわりを満たして幸せと言う。だがよく考えて見ればそんな幸せなど人生の景色でしかない。なのにあの景色は良いがこの景色だと悪いと言い巡り来たオリジナルの素晴らしい景色を自分が勝手に選んで食うだけで味わいもせず幸せと呼ぶ。 人生の(自分にとって都合の)良い所だけを味わっていては人格は磨けない。大人が自分を優先して幸せぼけになっているから大人が人格の重さを知らない。当然に子供の人格を守り成長させることなどできない。人格に限らず子の問題は大人の生きた結果なのだ。 |
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