(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成17年2月号
  NHKの朝の連続ドラマ「わかば」から。「現実にはありえないな」と思ったが、極めて大切な事をテーマに放送していた。十一月半ばのことだった。「わかば」は阪神大震災によって父を亡くし母の実家である宮崎に寄宿して来た家族の物語だ。
震災のショックから抜け出せない高校三年の長男が自分の将来に迷い家出を思い立った。だがなかなか実行できない。それに気づいた同歳の従兄弟が家出をけしかけた。その時のせりふが「大学受験より大事なもん(自己の確立・生きて行く自信)があっと」だった。
 余談だが筆者は子供に「宿題はせよ」と言っても「勉強せよ」と一度も言わなかった。宿題は約束・ルールだから果たさねばならない、と子には説いた。筆者は学問をばかにはしないが学問万能をばかにする。その為に子に「勉強せよ」とは一度も言えなかった。
勉強だけができる浅はかな子になってほしくなかった。学問より自信の積み重ねが大切だと思って来た。
 話を「わかば」に戻す。普段は鳥のトサカ頭をしている落ちこぼれの従兄弟が長男の変化に気づき家出を支持し万端整え、揚げ句に「受験より大事なもんがあっと」と決めた。そうなのだ、学問は生きる事に活かせてこそ「修めた」と言える。因にノーベル賞は学問発展のためのものであって、学問を修めた事への褒賞ではない。
 だが現実、高校三年生がこの言葉を発することができるだろうか?。現実にはありえない、と思った訳がここにある。現実の高校生の多くが「大学受験より大事なもんがあっと」と言えねばならないのだ。というより多くの高校生が言えるものであってほしいと思う。
 同様にドラマではいったん否定して後に肯定するのだが、そんな家出を親は否定する。否定する親こそ実は学問万能の価値観に染まっている。だから学校が学問を極める為でなく、良い就職先を得る為の道具になる。その程度の就職のアクセサリーにしかならないものを、採用する会社も本人もその親も気づかない。
そして安定を得て逞しさを失う。逞しくなくて安心した生き方はないのに、だ。
 知は痛みである。痛みのない知はせいぜいウンチクの羅列くらいのものだ。どんな博学でもウンチクの羅列の域にあれば情報を活かせず対応できない。痛みは知を生み、その知は自信を生むのだ。

 だが現実は、親も子もこの痛みを悪いものと思っている。痛みがあるものを優しくないものと考え排除する。筆者は子に「もっと苦しめ・せめて歳相応に苦しめ」と思っている。こんな親は少ないと思う。筆者の様な親は悪い冷たい親と言われが、筆者そのものは立派な親だと自負している。
 「もっと苦しめ・年相応に苦しめ」を言えるには絶対たる信頼が必要なのだ。筆者の場合は信頼まで行ける子ではないが、それでもどんな馬鹿をやっても信用はしている。
だが、日本の教育は心とか優しさと言いつつ、子を全く信用せず管理を押し付け続ける。日本の教育が人間性善説に基づきつつも人間不信による管理を強い、性悪説の国の教育が人間の信頼による放任なのはおもしろい対照だ。
 さて山古志村では生徒に空から地震の惨状を見聞させた。賛否両論があったらしいが、非常時だからこそ痛みをしっかり経験すべきだ。この判断を下した村長は偉いと思った。その結果トラウマが残ろうと、そのトラウマに負けるようなひ弱な奴は本当のところ、どこにでも生きて行けないのだ。
 信頼には個人の重さの自覚だけを説けば済む。自分の重さを自覚したらどんなに挫けることに遭ってもトラウマに負けたなどと言わない。トラウマであればあるほど克服しようとする。当然、独力で、だ。その自分の重さも痛みでしか分かり得ない。・・・痛みを省略できる悲しい現実が日本にある。







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