(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成17年5月号
  縄文研鑽倶楽部の『鬼に会う旅』が六月に行われる。この団体での歴史観は戦前だったら投獄されてしまうものだ。『鬼』や鬼の遺跡を巡って行くと、万世一系が完全な間違いであると気付いてしまうからだ。でもだからこそ歴史教育はオープンであるべきと思う。
 この時期に至って中国が凄い。反日行動が過激になっている。昨年末サッカーの試合があった時もそうだった。筆者は中国政府が押さえ込むと思っていたが多くのマスコミは暴動が起きるのではないかとやたら恐怖を煽っていた。結果は整然と応援が行われたようだった。あの国の政治体制ならば政府が押さえ込むのは容易な事だからだ。
 だが政府が黙認している今回はどうだろう?。ここに愛国主義教育のあり方が見えては来る。愛国は心の自然な表れであって歴史教育から煽ってもむだなのだ。
 中国の場合一九九四年から「愛国主義教育要綱」を実施し、その中で日本を悪者・目の敵にし、その結果、この騒ぎに至っている。現在日本留学中の中国インテリ達もその様な自国の教育を受けた。だから来日して日本人の自由さ平和ぼけに驚くという。愛国教育とはそういうものだ。
 余談にはなるが、だから教育と医療は国が管理してはならないと筆者は唱える。一番大事な部分を国が管理するから、国民は自立を忘れる。我々皆が自立を意識できたら医療も教育も自由競争が正しく、その結果、存在理由のない物は省かれて行く…その邪魔をしているのが国家管理というものなのだ。
 話を戻すが、愛国とはなんだろうか?。(筆者は戦後の生まれだから明確に言えないが)同じ愛国教育を日本でも行っていた。また今の北朝鮮でも愛国教育を行っている。反面、自由の国アメリカでは国旗国歌に対しては個人の主義主張を越えて敬意を表する。日本では式で国歌を歌わなかった教員の名を公表すると騒いでいる。さらにまずいのは、神話教育の復活を唱える人が増え出した。
 現実をみれば明白な事だが、中国も北朝鮮も戦前の日本も、不満を国家に向けてもらいたくないから愛国を煽っているだけだ。だが愛国は心の自然な表れであって押し付けられるものではないのだ。
 国でも会社でも家庭でも個人でも失敗をして成長する。不平不満は明日を開く大事なエネルギーなのにそれを受け入れらえない。つまり国でも個人でも、不平不満に対して元気・活気を提示できればそれで事足りるのだ。そこから自分や家庭や会社や国を愛することが始まるのだ。指導者自らがその活気・元気を会得し実践していれば済むのが愛国なのだ。
 安直に神話教育の復活を唱えたり愛国教育実施を求めたりしてはならない。それを実行すればかつての日本や今の中国の様に自分の首を自分で締める結果にしかならない。不平不満に対して元気・活気を提示できない人は歴史教育ではなく、自身の自立教育を行うべきなのだ。現代日本において神話教育復活を唱える人は自らの自立性のなさに思いを致すことだ。自分の不徳を社会の不備へと安直にすり替えてしまう事は異常なのだ。
 不平不満に対して元気・活気を提示できるとは自立を意味する。そして家庭も会社も国家も個人が基本で、その個人の集積でしかない。その個人は自分との戦いでしかない。この自分との戦いは永遠に自分の負けだ。自分の負けだからこそ自立につながり、その戦いのエネルギーが元気・活気となる。
 しかし現実社会では自立とは経済的な事しか意味せずその他は自由ではなく全部自分の責任なのだ。その自分の責任は自分と戦っていねば見えず書物には書いていないのだ。中国は教育の失敗例を自ら示し、日本人の大人に自立の本質を問いかけているのだ。






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