●平成17年6月号 |
尼崎の脱線事故では「今すべき事」ではなく「したい事」が優先されている現代日本の姿が見えた。高文明だが低文化の日本、この事に気付かねば国はよくならない。 事故後JR西日本の幹部は、やれ置き石だとかスピードの出し過ぎではないなどと言って、会社として責任を逃れるという「したい事」の為に事実の隠蔽を行った。また普段から運転手のミスがあるとそれに対していやがらせとしかいえないペナルティーという「したい事」を課して、一番大切な安全確保のための具体的方策を策定してはいなかった。 また被害者となった乗客にしても便利という「したい事」を優先して、過密で安全性も見えないJRの列車を利用していた。天下のJRを信用していたと言っても、自分の安全確保という「すべき事への」無関心の事実は残る。 彼らは転覆事故の被害者ではあるが、過失の全くない被害者という意味にはならない。加害者のJR幹部の保身にしても、被害者の乗客の自分への不関心にしても、「したい事」の優先と「今すべき事」の失念では共通している。 「したい事」とはつまりは自分の思いの優先であった。実際に現実社会には「やりたい事をやったからいつ死んでもよい」と断言する人も多くいる。だから人生を「したい事」の実現期間と定義してしまっても平気なのだ。 だがそうだろうか?命は神からの授かり物なのだ。授かり物の命をしたい事という自分の思いの実現だけに使う事に疑問を感じるべきなのだ。少なくとも命が授かり物と確信できる人は疑問を感じている。そして、命は授かり物という真実を確信できるのは安楽に生きないことによる。人生百の内九九が不幸でできているのだから、まともに生きてさえいれば安楽に生きられようがないのだ。 だが、人生に不幸が圧倒的に多いのは、神が自立を一人一人に問い続けている為で、だから不幸が圧倒的に多いのは自分の個性の確信とその実現の為でもある。そして個性の実現とは「今すべき事」の実現と同じ意味なのであって、したい事をする事では決してない。 だから人生を「したい事」の実現期間とする定義は大きな間違いだ。だがその間違った事を幸せの実現と勘違いしている人は多い。 幸せも不幸も風景で、幸せの追求と人生とは無縁なのだ。幸せ実現という行為が、不幸という人生の多くの風景を壊している、と気付くべきなのだ。だが現実は「したい事」しか眼中にないから「やるべき事」が分からない。やるべき事が分からないとは、今回の事故の加害者と被害者に共通して見えた「行動の優先順位」が見えない事でもある。すべき事が不明確ではピンチに対応できない。 困った事に偉い立場の人ほど大きな幸せが実現されその幸せに留れるから、したい事の目線しか持たなくなる。自分の思いを捨てて今何をなすべきかという「すべき事」への問いかけのなさが偉い人達に良く見えた、今回の事故で隠蔽工作を偉い人が指示し、正直な話を現場の人がしたのはこの故だ。 すべき事を偉くない人が考えられるのに、偉い人達には考えられず保身という「したい事」で処理をしようとした。すべき事への問いかけが普段からできねばならない事を今回の事故から学ぶべきだ。 自分や地域や国の不合理を受け入れねば「今すべき事」が見えない。今すべき事の積み重ねがやがて文化となる。大切な事は、高文明で幸せに満ちていても文化がなくてはせっかくの高文明も意味を持たないという事だ。文化がないと豊かだがひ弱な人が集う。このひ弱さを補うために理屈をどこかから見つけて来る。だが理屈を持っても頭でっかちな自己弁解にしかならない。不合理の受け入れが肝要で、それはまた命は授かり物と信じて生きることでもあるのだ。 |
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