(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成17年9月号
  御嶽夏登拝が終わった。今年も無事故の奇跡であった。大神様のご加護を思い、有り難く思う。
 今年で三三回の登拝だが、この三三年間、多くの人が出入りしていった。団体だから当然なのだが、多くの人々の心を見させてもらった。極端な言い方をすれば、我々に限らず団体というものは、反面教師の集まりである。反面教師とは「ああはなりたくない」という存在を言う。団体のみならず、社会はそのように出来ている。
 三三年間、自分を含めた反面教師を見続けて言えるのは、人間には「本物と偽物」しか存在しないのに、社会では「結果」が問われるということだ。実業家という言葉があるが、本物偽物とは無縁な結果だけを存在させるのが世の中なのだから社会は殆どが虚業であって実業などは言葉だけしか存在しない。その虚業を実業と錯覚できる多くの人がいるのが残念ながら人間社会なのだ。虚業を実業と錯覚できるから、社会には本物が極めて少ない。しかし偽物である筆者を弁護する訳ではないが、本物偽物という価値基準を知っている偽者は少しはまともなのである。
 本物であってこそ活力ある営みが出来る。命は個人にも社会にも国にも宇宙にもある。本来、宇宙の一切は命の活力に溢れて出来ているものなのだ。その命だが、宇宙の創造主の「命」令でもある。だから命なのだ。命というものが宇宙の創造主の命令であることを我々は理屈を言わず、盲信すべきなのだ。なぜなら安心に至れるのは、命令であるからなのだ。御嶽の山中でご来光を拝する時に、この命への思いが脳裏を一瞬かすめる。その命への思いとは、普段の生活の「どうすれば良い生活が出来るか」「どうすれば立派な人になれるか」を遥かに超えた思いだ。
 その活力に富む本物という存在にはどうすればなれるのか?。三三年間講を通して人を見て来て言えるのは、簡単な事なのである。今自分の思いを捨てられるかどうか、なのだ。自分の思いを捨てられたら本物になれるし、捨てられなかったら偽物にしかなれない。
 成功したから本物になれるのではない。成功を多くの人が目指している。努力で成功を導けるのだが、本物にはなれない。成功して社長になったとしても、本物でない人は実に多い。自分の思いの実現に向けた努力は神から見たら我がままの実現でしかない。だが、この我がままの実現を多くの人々は努力と間違って称している。
 本来の努力と我がままの実現との違いは自分の思いへの距離にある。この距離をもっとはっきり言えば、自分の正義を優先する為に自分の思いを捨てることなのである。どんな弱小なる自分にも正義がある。弱小なる自分の正義とは言うがそれは自己の確信からしか生まれないもので、思いつきとか便利からは永遠に生まれない。
これが距離の差である。
 人間は今に対しては全力を尽くす義務を持った、常に受け身なる存在である。この今に対して自分の思い優先するから人生を便利や甘えの中で浪費してしまう。社会はそれでも便利や甘えの獲得を幸せと錯覚して言う。偽物はいや偽物だからこそ、ただの便利に満ちる事を幸せと呼んで憚らない。だから永遠に心など分かり様がなく、心=優しさと錯覚できてしまう。
 偽物は優しさを最上の価値観だと錯覚する。さらにはそれを人間の奥行きのようにすら思い、それを優れた人間性の如く錯覚してしまう。単なるやせ我慢でしかないし、そのやせ我慢を通す事が我がままでしかないのに、良い人という自己満足に浸ってしまう。
 偽物が持つ自己満足をどう捨てるのか、こそが問題なのだ。御嶽で修めて来た修行とは、二日間「はい」と言って、嫌々ではなく全力で当たる事でしかない。だが普段の生活が命の正義の優先であれば、御嶽まで行かなくてもできるのだ。




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