(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年12月号
 テレビゲームのソフトを買うために大蛇の如き行列ができた。そこに若者が多く並んでいた。この情景には落胆した。売れ行きが伸びることは人気のなす事だからどうこう言うべきものではないが、今すぐに買わねばならない、という思いを「大人」が持っていることは悲しいことだった。ひるがえって見渡せば、自分の思いを待てない大人が多くいることに気付く。
 だがすぐ実るもの、すぐ叶う思いは現実には何も存在しない。すべては時間をかけて、かけた分だけしか物事は実って行かないものなのだ。この簡単な定理の通用しない大人が増えているのはどうしたことだろう。
 筆者も滝打たれで同じようなことに出くわす。一回滝に打たれただけで人生に劇的に目覚め・出会いを得られると錯覚して滝場に来る人は案外と多いのだ。
 昔、滝打たれ三十回位の高校生に「先生の言わんとすることが僕はようやく分かりました」と言われたことがあった。「馬鹿言っちゃいかん、そんなに簡単に判る人生だったら、それは考え違いをしているのだ」と答えた事を覚えている。筆者が特別に偉いからではない。また、実際に若くても悟れる人もいるし死ぬ時期になっても悟りのサの字も判らぬ人もいる。だからその高校生を否定しないでも良いように思うが、その高校生には痛みの積み重ねがなかった。だから筆者は高校生のその発言を褒めないで否定してみせた。
 滝から離れて現実を見た場合でも、物事を習うのに楽しさをテーマとする人が多い。楽しくそして時間をかけず思いを叶えようとする人は多い。でも知識とは痛みである。痛みをどこかに置いてしまって楽しく何を習うのだろう。痛みの積み重ねなしで習えるものがあるというのだろうか。習えるだろうが、学べないし、学べない以上は身につかない。
 同じように、判らない事を聞く時に気楽な人に教えてもらう人も多い。そんな人達には、教えてもらえるが身につかないという結果が共通している。脳は恥ずかしい思いや嫌な思いをした事は忘れない様にできている。だから嫌な人に教えは乞うべきなのだ。気楽に話せる人に判らない事を聞いて例え判ったとしてもすぐに忘れる。すぐに忘れる事を理解したとは言わない。なのに、恥ずかしくない・いやな思いをしないで済む気易い人の所に足を運ぶ。だから解決できない。解決できないように自分を仕向けて、気易い人を「よい人・優しい人」と評価している。本物は疎まれるが必要とされると筆者は言うが、気易い人とツルんで来た人が本物に足を運ばねばならない時には、問題は混乱し切っていてどうにもならない。今まで痛みを避けて来た分、混乱が大きくなっているのは当然だ。なのに一番苦しいのは私と言い、今すぐの解決だけを求める。
 気楽な人に教えてもらって判ったとしても、また自分から書物などで知識を得たとしても、それが知る事の終点であるから無意味なのだ。大事なことは目線なのだ。大事な目線とは今すぐ判って終わる事ではなく、今判ったことが次に判る事へのスタートであるということの納得ができている事だ。
 その為には何が必要なのだろうか?。要するに失敗すること、恥をかくこと、嫌な思いをすることなのだ。待ってる間、嫌なことを積み重ねられる・・・それを本来は大人と言うべきなのだ。
 現代は効率を重んじる。だが痛みのない効率とはその場限りであって人材も技術も何ものをも育てない事に気づかねばならない。だが自分の裡に何も育ててない人ほど、それまでがノーミスで生存競争の勝者となっている。ノーミスで大人ではない人が世の中心にいて、大人でない分、今の解決を求める。だが根本の解決にはならない。それは自然の理でもある。  

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