(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年5月号
 WBC野球の世界選手権は日本が優勝して終わった。今回の世界野球は精神力の強さ・思いの強さで決まった。精神力というと、精神一統何事かならざらんという戦中の言葉を思う人もいるだろう。だが万能だったら誰でも結果を出せる。そんな万能な精神力など初めから存在しない。精神を鍛えるという事は生活の理論化と同じである。イチローという選手の高感度がアップし、不参加組の大リーガーにはブーイングだったが、この差は参加不参加の理由付けにあった。競技して見せて金を稼ぐプロでも、仕事への考え方には大きな差があった。仕事への考え方とは取り組み方とイコールで、自己の理論化である。野球に限らずだが、しごとは金を稼ぐだけのものという考え方と仕事がイコール自己啓発という考え方がある。そして言えば、一流と評される人にも本物と偽者とがあり本物は自己啓発を通じて自分を理論化しているのだ。才能だけ磨いても本物にはなれないのだ。自己の理論化について言えば、人間は元々が不合理の塊であるから人間共通の理論化などはあり得ない。だが自己を掌握しようとすることはできる。しかし掌握し切って自分を理解することは現実問題、ありえない。それほど人間の心は不合理で固められている。だが、問題はここだ。不合理で固められているからこそ、少しでもその扉を開けねばならない。開けねば安心に至らない。安心がなければどんなに満ち足りた現実で幸せでも、不平不満で自滅する。人間は不幸でも安心できるし、幸せでも不安になれるのだ。不合理だからこそ自己の確立に向かわねばならない。それは取りも直さず生活の理論化なのである。イチローはこの大会までクールといわれた。優勝のシャンペンかけの無邪気さには、陽気な世界への不慣れが見えた。だがあれがイチローの精一杯の姿なのだ。精神が安定(不動)であって、初めて思うように体が動く。そんな精神状態を作るためには、回りのすべてを例えどんなに自分に不都合であっても当たり前とする。現実を当たり前として受け入れるが、自分のペース・リズムはそれに左右されない。自分のペース・リズムを崩されるのは当たり前への不徹底であって、それは回りのせいではなく自分の問題なのだ。だからイチローの普段はクールなのだ。負けた時に見せた悔しい顔がイチローの素顔で熱い思いの表れだった。自分への拘り・集中が強いからクールに見えるのであって冷めているのではない。熱い思いがあってこそ自分のペースが形作られるのだ。さらに言うなら、野球にだけ熱い思いでいるのではない。その程度では心が揺れる。滝場で「滝を続ける事を第一の価値観にして現実の一切を受け入れる」とよく言う。滝打たれだけやったって滝の打たれ方がうまくなって終わりで成長するものが何もない。滝以外でしっかり生きなければ滝は何も教えない。我々も滝打たれに限らず、イチローと同じ課題を背負っている。普段の生活こそ大事なのだ。そしてその普段の生活は、現実の全てを当たり前として受け入れる努力が全てなのだ。現実の不快な出来事を受け入れる勇気をもち続ける事なのだ。最終的にはイチローのように、自分の不快な事に心揺れないことなのだ。何があっても自分のリズム、自分らしさを押し出せることに尽きるし、それが思いの強さなのだ。その自分らしさが分からない。自分が不合理なのだから分からないはずだ。だが全力を尽くしたのが自分なのだ。だから全力を尽くしたか否かだけを問えばよい。全力を尽くしたらそれが何であれ自分だと受け入れれば良い。思いの強さは普段をしっかり生きる積み重ねからしか生まれないのだ。


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