(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年7月号
 常に言っている事だが、解決は自分が変わる事であって回りを取り巻く条件が都合良い状態に整うことではない。回りが都合良くなっても、現実を乗り越える意志がそこに生まれなければ解決ではない。これは病気でも言える事だ。
 社会不安障害という病気があるという。緊張で手が震えたり声が震えたりして、最後は緊張の場から逃げてしまう事をいうのだそうだ。そのような時には酒や薬が効かないという。人間は過度の精神状態になると扁桃帯という臓器が過敏になるらしい。臓器の機質が普段と変わっているから病気という言い方をする…機質変化があるから病気とするのは一方的すぎる。
 例えば我々の様に滝打たれをやっている者は滝と向き合ったら過度に緊張した精神状態になる。手足は震え、声も上ずり、震えも帯びる・・・ただ逃げたら意味がなくなることを知っているから、必死な思いでそのの場に留まり玉砕を覚悟する。そして不思議に思えるらしいのだが、玉砕をした後の気持ちは、実に爽快なのだ。この爽快感は玉砕感が強いほど大きくて、気の持ちようという次元ではない。
 そんな筆者が、奴らは強い、と思う事がある。それはお笑い芸人だ。彼らはお笑いではなく消耗品としてテレビに出てくる。下らぬディレクターの下らぬ企画をそれこそ命を張ってコナしてゆく。その姿はお笑い芸人ではなく、人間の弱さを売るリアクション芸人とさえ言える。
 我々のように滝に打たれることが自己啓発であるという価値を確信していても心は乱れきってしまうのに、お笑い芸人はそれをただ仕事という割り切り方でコナさなければならない。仕事というが実態は単にお金をを稼ぐという事で、芸を売って稼いでいるのではない。自分という人格の、その醜い・弱いと言われるであろう部分をあからさまに見せるだけで、実はどうしてもその芸人が出演せねばならない必然がない。だれでも良いというイジメを見てそれを笑いだと思う悲しさが社会にはあるのだが、だれでも共通する精神の緊張を強いられてしまう芸人は滝打たれ以上に緊張しているはずだ。
 しかしそんなお笑いさんや我々は社会不安障害を免れている。もっと正確に言えば、知らぬうちに社会不安障害をクリアーしてしまっているのだ。
 機質変化を起こしているから病気だというが、機質変化を起こせばこそ人間はどんな状況でも生きていられるのだ。つまり一時的にせよ永遠にせよ、病気になるから人間は生きていられるのだ。そして大切なことは我々の玉砕と同じく、苦境に順応してしまうと病気は快さを生み、その快さが機質変化を治してしまうのだ。
 病まない方法など存在する必要が初めからないのだ。病むから人間なのだ。病むから快さを知ることができるのだ。人間はそういうメカニズムで成り立っている。生きるという事、生きざまが視野に無い人ほど、死を恐れる傾向が強い。極端な言い方だが、生きる意味を漠然とでも考えられる人は、自分の死を受け入れる力がある。
 緊張に際して副腎皮質ホルモンが分泌されるように扁桃帯が過敏になるのは正常な現象なのだ。だからこそ、緊張を突破できる力が生まれるのだ。問題はその機質変化が長時間続く事にあるのだが、醒めて見れば不便が長く続くだけでしかない。その不便に居座っていればいつかクリアしてしまう。習うより慣れろ、ただそれだけでしかない。全ての解決は慣れから始まるのだ。刺激に慣れなければ機質変化は元には戻らない。問題は慣れることにある。だが漫然としていても慣れることはできない。慣れるには強い意思が必要なのだ。その意思とは今を自分で選ばずにただただ受け入れ一所懸命に生きる事なのだ…この思いを持ち続ける事に慣れれば良いのだ。

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