(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成18年8月号
 鬼に会う旅の今年は平泉で藤原三代とその藤原の百年前に平泉周辺に勢力をもった安倍一族とその安倍氏に討たれた大嶽丸を訪ねた。
 この中で鬼と正当に呼ばれるのは大嶽丸のみで、安倍氏にしても藤原三代にしても俘囚長といわれ稲作をして途方もない財をなした豪族達である。稲作が始まって鬼という人々は生まれたのだが、稲作をした俘囚は鬼には属さない。
 採取狩猟生活の縄文人の次に稲作をする弥生人が出現した。鬼に会う旅を終えて思うのは主義主張を持たない日本人の悲しい姿だ。だが現代人の多くは主義主張をしない姿を日本人の優秀性という。
 最近の不況や生産性の低さに鑑みて、昔に戻れという経営者も多い。生産性を上げるには主義主張のしない団体主義が一番手っ取り早く簡単だからだ。だが、だから先の戦争の姿となる。団体主義では物事を自分で考えてはならないのだ。自分の考えが無くて生産性だけを上げて何の意味があるのだろうか?。お隣のやくざ国家の様子を見て眉をしかめる人は多いが実は我が国も団体主義と変わらない国民性である事に何人が気づいているだろうか?
 マスコミのヒステリーなまでの同一事件の報道、そして新たな事件が発生するとヒステリーが一緒に治ってしまってそれまで扱っていた事件報道を捨て去る。そういうマスコミ操作のうまい総理がいて、近く任期を終える。なんとか劇場などと称し、マスコミはその劇場を更に劇的に報道したし、その報道に付和雷同して多くの人々が参加した…劇場参加する事が正しいかの様に、ドラエモンに似たあだ名の虚業家が選挙で次点になり多くのチルドレンが生まれた。
 大人の世界がそうだから子供の世界でも自己主張の強い子は先生にも地域社会からもそして友達からも疎外されている。それ程、主張せず大勢でいる事が正しい、と現代の大人は思っている様だ。でもそれは現代人に限った事ではない。悲しいことにそれは稲作が始まって以来の日本人の心の在り方で、稲作の心などと呼んでいる。
 農家に嫁が来ないのは、農業のナアナア感覚が若い女性に受け入れられないからだ。そのナアナア感覚は一個の女性に結婚という博打を打たさせなくしている。博打を打とうとするには、厳しくてもよいがハッキリしていなければならないのだ。
 だが、優しくてハッキリしないのは農家だけの現象ではない。現代は殆どがその様になっていて得意げにファジーなどと宣う。農家の嫁不足の原因は会社にもある。金のためには妥協して働くという若者がいたり、それもいやでニートになる若者も出てくるのだ。働く喜びを教えられない会社はつらい。すべてハッキリさせないからだ。ハッキリさせないのは孤立したくないからなのだ。
 孤立できない、一人になるのが怖い…滝場でも多くの人は一人では来れない。滝打たれが良い事だと思っていても連れ立ってくる。一人で来れないのは立場が上の人に多い。だから良い事をやっても自己満足以外には何も得られない。
 小さな世界でナアナアでやっているのだから自己満足以外のものは生まれない。小さい世界での自己満足は農村の姿だけではなく、現代社会の姿そのものなのだ。
 鬼に会う旅は稲作文化の卑小さを筆者に訴えかける。それがつらく悲しい。現代社会の卑小な人間像に大人がまず気づかなくては何も子孫に残せない。現代社会の卑小な人間像は確かに稲作文化の産物である。ただその時争わなければ良い、孤立しなければ良い、突出して叩かれなければ良い…その結果、生産性が上がってみたところで何がすばらしいのだろう。上がった生産を生きる何に結びつけるのだろう…。縄文人の様に強烈な自己主張があってこそ生きたと言えるのに、だ。

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