(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成19年1月号
  年頭から私事で恐縮だが、昨年は新潟日報の「窓」欄の落選がゼロだった。月一回投書する事が筆者の会への義務だから昨年は計十二回掲載された事になる。掲載の倍率が三から四倍だからラッキーな事だ。だが投書しながらこんなことに手間をかけねばならない切なさを思った一年でもあった。
 滝打たれをやって心を鍛練(自分らしさの発見確信)するには膨大な時間がいる。会得するには心の方向づけを確信する為の膨大な積み重ねがいるからだ。その膨大な積み重ねを真剣にやればやるほど社会の人々はそれを反社会的(正確には非日常であって反社会的ではないのだが)な事と見る。そして更には反社会的だからと社会から排除をしようとする。異質な物は悪魔である、という理解が社会には圧倒的だ。良く考えれば異質な物はほとんどが非日常だけで反社会的なものは少なく、そして非日常な分だけ実はものごとの本質を衝いてもいる。
 だが社会では悪魔を排除しようとする。その排除に腹を立てて国に牙を向いたのがオウムだった。我々はオウムが社会から叩かれ出したころにスタートした。我々がオウムに間違われもした。大切な事はオウムの説く教えの正邪であって特異な行動ではない。なのに特異な行動を理解出来なくて排除した。排除されぬ為に教会では野外炊飯などの社会活動や福祉という社会事業を行った。何倍もの労力を本道以外に費やさねばならない。筆者の新聞投稿も同じ理由だ。
 学校の制服でも同じことが言える。小範囲での改造は学校側でも許す。だからその範囲での改造に生徒は頭を使う。大きな改造は学校側も友達も許さない…。その程度のみみっちい事が個性とされてしまう。同じに、大人社会にあっても小さな特異は許すが、大きな特異は受け入れず排除する。悲惨だがそれを個性として貴ばない。 日本では習俗・風習化したもののみを安心出来る宗教と言う。祭りや葬式を執り行う神社仏閣がそうだ。心を扱わぬ習俗風習屋なのに大きな異質を持たないから安心できる宗教なのだそうだ。習俗風習はどこまで行っても習俗風習で宗教たりえないのにだ。

 宗教が扱う人間の心とは、元来個性的であって、元来が個性的とは一人一人が異質な存在という事だ。そして一人一人が異質な存在という事は絶対に理解出来ない・理解されないという事である。つまり我々が命として授かる個性とは最大に大きな異質なのである。
 その大きな異質である心が、一時の約束事の為に小さな異質あるいはその小ささすらも消し去って同質を装わねばならない事がある…それが人間の社会性というものだ。人間は一人では存在できないから社会性は微量に必要なのだ。結論を言えば、人間の社会性は一時の約束事でしかなく、絶対的に大切なのは個性なのだ。

 宗教は本来が心を扱う。安心した心の発見をしそして営み方を説く。心を扱うのが宗教で心は大きな異質だから、個人も宗教も常に反社会的な存在だ。反社会的だからこそ命なのだ。これが解らねば共生は出来ない。だが日本では共生にほど遠く、異質排除に何の疑問も持たず権利とすら思っている この事に疑問を持たない限り子供社会のいじめはなくならない。異質排除を権利とする考えは間違いだ。それに気づかないから大人社会はいじめの連続となる。いじめの本質は異質の排除だ。いじめのない学校が実現できたとしても社会に出ればいじめの大嵐が吹いている。異質との共生を大人が解らないからいじめが学校だけの問題だとし、いじめに遭わせぬ為に生徒を一層純粋培養する。我々大人の命=個性=異質のあり方つまり哲学が問われている。生きる奥行きを拡ろげ、安心に至れる哲学を大人が提示出来ねばならないのだ。  

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