(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成19年11月号

 前回のアメリカ大統領選挙で惜敗をしたゴア元副大統領が環境問題に対する功績でノーベル平和賞を授与する事になった。筆者はノーベル平和賞受賞よりもゴア氏の志の高さに感服している。
 日本では「選挙に落ちたらただの人」という諺があるが、ゴア氏の活動と比較するとその差は甚だ大きい。選挙に落ちても政治家に志しがあれば決してただの人にはならない、という事をゴア氏は体現してくれた。選挙の当落に関係なく、政治家は本来が志の人のはずだ。なのに「選挙に落ちたらただの人」という諺がまかり通るのが日本という国だ。
 先回の総理大臣選出劇でもそんな志を持たない政治家の多い事を悲しいかな証明してくれた。勝ち馬に乗る事が最優先されて、政策議論とか理念とか人間性とかが無視されていた。出馬宣言した人が急に引っ込んだり、それをして政治と言ってみたり…。あの総理選出劇に国民が期待していたのは、最終的に国民の為の議論であって、議員自らが勝ち馬に乗ることにあったのではない。
 この選出劇にあたっては、地方からも投票ができた。その地方も殊に新潟県の場合には『地震復興があるから勝ち馬に』と堂々と言う県会議員様もおられた。国の政治をその程度の低さに考えて疑わないのはつらい。国にも県にも国民の為ではなく自分の為という狭小さしか見えなかった。自分の為という狭小さをマスコミは間抜けて見抜けず、それを政治として報じて来た。
 何の為に勝ち馬に乗らねばならないのか…。ゴア氏には落選しても当選してもやるべき事の変化はなかったようだ。やるべき事の実現力に差があったとしてもやるべき事が変わることがなかった。当選して大統領になれば、実現力が強まる分、余分な事への労力も増えただろう。中心がブレない事、それが高い志しというものだ。
 対して、落選すればただの人という言葉を定着させて更には諺にしてしまって疑問を呈しないのが日本である。志の有無からすれば「落選すればただの人は当選してもただの人」が正しい。
 問題にすべきは、そんな「いつだってもただの人」に投票してしまう私達の見識のなさにある。私達のそんな刹那の生き方こそを反省をすべきなのだ。
 刹那の生き方は見識のなさによるし、見識のなさは幸せ実現のみの希求にある。幸せ実現のみの希求は志のなさを生む。そして志のなさとは哲学の欠如を意味する。哲学のない政治や社会はどんなに豊かになっても、貧困のままだ。同様に哲学のない人はどんなに出世をし豊かになっても人生は貧困のままで安心を見いだせない。
 幸せの実現だけでは済まないからこそ人生だ。それだけ私達人間は不合理の固まりなのだ。豊かさや幸せで済まない不合理な人間の生きる事への原則こそを哲学と言い、志と呼ぶのだ。
 志は痛みの積み重ねからしか生まれない。その志は積み重ねられる痛みに揉まれて信念となり、信念も痛みに揉まれて哲学となる。だから痛みを知らない人は志を持ってみようがない。
 政治家に限らずだが、私達は痛みを避ける刹那の生き方を改めねばならない。だが社会では逆で、痛みを避けて幸せと称する。幸せがそんな程度だから、どんなに幸せを大きくしてみても安心とは全く結びつかない。安心とはそういうものだ。厳しく言えば安心と結びつけられない幸せはどれだけ豊かでも傍迷惑にしかならない。
 志のある生き方を目指さねばならない。後世に残せる「目に見えない」原則を意識し、そんな生き方の受け継ぎ責任を自覚せねばならない。平和賞とは無関係でも、私達もゴア氏のように志ある生き方をせねばならない。それは毎日がドキドキする生き方でもある。


   


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