(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成19年4月号

  児童自立支援施設とは一昔前の教護院で、非行を犯した少年の更生自立を目指す施設だ。その入所者二名が年末に行方不明となり、そして一月半ばに戻った(連れ戻された)。施設では行方不明の期間の二人の行動を調べた。その結果、引ったくりをしていた事が判明した。施設では警察にその旨を通報した。通報を受けた警察は二人を逮捕することにした。これを受けて施設では、予定されていた社会見学の出発時間を遅らせて二人が警察に連行される様子を見せた。曰く「悪いことをすればああなる、という学習の良い機会」として。愛知県の児童自立支援施設での事だ。
 これに対しその是非を問われた愛知県では「判断の是非を専門家に聞いてから」という態度を示した。施設と県、双方の考え方が間違っていると思った。
 どれほど非行を重ね箸にも棒にもかからないような少年だとて、そういった少年の更生自立を目指す施設なのだ。やった事の善しあしからすれば悪い事に決まっている。だから処罰が妥当…それも正解だ。 だがこの場合の処罰が警察に逮捕させる事だとしたら、それは不正解だ。その不正解が施設の職員にも、その施設を監督する県でも見えていなかったのは、全く情けない。大人社会が持っている異質を排除する理論に疑問を思わない姿の典型だと思った。
 「悪いことをすればああなるという事を学習させたかった」と言う前に、非行少年を自立更生に向けて指導できなかった施設職員が、自らの力不足を反省しその悔しい様を入所者に見せるべきだ。それですら自立更生施設の職員としての立場でしかない。そんな自らを省みず罰則や威嚇で「教育」できると思っている。それは怠慢であり、怠慢はその人の生き方を傲慢に導いている。その傲慢さを指摘できない県の係官も、自分の非が解らないという点では同じで、間違っている。
 管理・教育というが職務上の形を以てそう言うのなら、それこそが怠慢だ。怠慢でないというなら立派に更生の実を挙げるべきだ。
 交通刑務所でさえ良い人になりなさい、親孝行をしなさい、と説く。そんな事はだれでも解っているのだ。当たり前の心情だと解っているのに「なぜか」が実行できない。その「なぜか」を探りその間違いを説かなくて何で教育と言えようか。 
 
マニュアルで教育できるという認識こそ怠慢そのものだ。人間はそんな単純な存在ではない。不合理の塊が個性であって個性を授かって生まれるから人間なのだ。その人間に対してマニュアルを以て教育をする…教育でありようのない事を教育にしてしまう。だから異物排除という実質のない姿を解決だと信じ込める。
 …どんな仕事でも理念という中身があって職務という形になる。理念があってこそマニュアルは意味を持つし、マニュアルは崩されてこそ価値のある事を解っている。

 
今回のような場合、彼らの理念とは何なのだろう?と思ってしまう。理念がなくてどう実質を作って行けるのか。実質のない結果を出してそれで終わりと言ってはならない。でも多くの人は「仕事だから」の言葉で簡単に割り切ってしまう。そして仕事というものを金を稼ぐだけの手段に自らが下げてしまう。だがそんな事を仕事と言われた分にゃ仕事が可哀想だ。仕事も人生を学び安心に近づく為の大切な分野なのに、だ。
 大切なのは理念だ。それ以上に大事なのは理念の基本となる哲学だ。筆者の良く言う事だが「なによりもまず哲学」なのだ。が大人の多くは哲学の必要を思わない。それは実質のなさ・空虚さに気づかないからだ。実質の有無は現実を見比べれば自ずと解って来る。 コトが終わってからその見比べが始まる。終わりは始まりなのだ


   

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