(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成19年6月号

 教会では伝統手技があって治療の延長を行っているが、病む人にもいろいろなパターンがある。そんな中に、何年か間を置いて大病になって来る人がおられる。医者では治せない病気に心因性疾患があるが、この病気だ。心に原因があると自律神経の失調を来し、内臓まで傷めてしまう病気なのだ。
 心因性疾患に限らずだが病気は原因を取り去れば治る。現代医学が取り去るのは原因ではなく病巣である。原因が取り去られるのではないから、再発したり慢性化したり更には転移したり拡大したりする。病巣が快報に向かうことを治ったと我々も医師も言うが、正確には病巣という結果に対する表現であって病巣を作る原因に対する表現ではない。
 それはさて、何年か間を置いて大病になって通って来る人のことである。教会で施術を受けてはいるが判断は自分で行う。自分の看護の仕方の判断は当然で、必ず一人付き添いを伴わせる。「あなたはそんなに名医ですか」と筆者は思ってしまう。しかしその人にすれば名医でも何でもなく、とにかく重病人なのである。一番つらいのが自分で、だから自分の思いを満たさねば治らない、と思っているようだ。
 この人はどこでもそのスタイルで生きているのだと思う。治ってしまえば健康に任せて自分の思いを満たす事に専念する。自分は我がままをさせてもらっていると評しつつ一家を仕切り趣味に邁進する。私ほど幸せ者はいないし、やりたいことをやったのだからいつ死んでもよい、と言う。その程度の事を幸せと呼べるのだから、いつ死んでもよいと言いつつ、病気になると異常に弱くなる。
 悪く言うのではない。病気の原因が生き方の間違いなのだ、と言いたいのだ。生きるスタイルが矯正できないから、再発するのだ。
 生活習慣病というものがあるがそれは自分の生活習慣が悪いものであると分かっている。一方、心因性疾患の困ったところは、自分が悪いと気づかない事にある。自分への思いで言えば、むしろ自分の善意だけを最大に正しいと思える特技をもっている。

 当たり前に自分を疑うことをせず自分の思いを押し出せるのだから、寂しさに裏打ちされた特技なのだ。だから生きる事への目線ではなく満足への目線しか持てない 自分を疑えないことに関して言えば、この人のように心因性疾患を病む人は家族をも自分の思ったように仕切っている。また不思議なことに家族もそれに従う。世間的には家族愛に満ちた家と言われるのだろうが、どっこい、家族のだれも自立できていない。そんな親を持つ男の子は嫁がいないし娘は夫を尻に敷いて不満タラタラである。結婚が幸せ獲得の為にあると親が示しているのだから、そうなるのも無理がない。だが結婚は苦労を味わう為に行うものであって幸せ獲得の為でない。この事は現実を見ればよく分かる。
 生き方を変えねば病気は再発する。生き方とは価値観でもある。価値観とは人生哲学でもある。人間の持つ精神世界や不合理を無視したら哲学は生まれない。
 人間として生まれた以上不幸で当たり前なのだ。私たちは幸福になる事より、不幸を受け入れ味わえばよいのだ。不幸を幸せで満たすのではなく、不幸を洞察することこそが大切なのだ。
 男も女も家族を大事にする、これは必然の情である。だが自分の思い通りに仕切ろうとするのには何の必然もない。自分の満たされない思いを家族に向けるのは卑怯で最低だと筆者は思う。そんな親が増えている。心因性疾患が増えているのはその傍証だ。
 
自分で判断する事は自立という点で大切だが、自分の思いで判断してはならない。現実を自分の思いで判断する事は我がままにしかならないのだ。


   

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