(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成19年8月号

  白玉の滝開きが終わった。滝打たれも大分認知されて来たようで今回は公共施設でのポスター掲示ができた。今回は滝打たれの一般参加者が初めて定員をオーバーした。調整のために参加を辞退してもらった人もいた。
 参加予定の中に、社長がいた。滝開きの二週間前に死にたいといって教会へ来た。滝打たれの効果は絶大で、社長は滝打たれの結果職場復帰をした。その社長も滝開きに参加の申し込みをしていた。しかし前日、仕事が忙しいからとの理由でキャンセル。参加人員の調整をした後だったが、かの社長は当方の都合にはおかまいなしだった。
 社長にとってつらいのは常に自分なのだ。この社長に限らないが仕事を理由に約束をキャンセルする人は社会からキャンセルされる結果になる事を知らない。自分しかできない仕事と勝手に思っているだけだ。
 一般参加者には滝打たれについて事前に安全な方法を周知した。だが本番で一人の女性が経を唱え自分流儀で滝に打たれた。その結果、頭痛を起こした。我々の言った安全な手順を無視したのだから当然だ。でもその人は滝に打たれたら頭痛を起こしたと言って回るのだろう。迷惑・迷惑…
 今回は直前に新潟日報が紹介記事を掲載してくれた。筆者が滝へ行く運転中にも写真撮影に行っても良いかという電話があった。新聞にはちゃんと青木と載っているのに「おたく」「そちら」と筆者を呼んで自分では名乗らない。「邪魔にならなければ撮影はよろしいですが、撮影できる場所はもうないですよ」と筆者。「来るな」と言いたいが、何を言われるか分からないので…
 以上の三人に共通なのは修行以前の社会的行動の欠如なのだ。自分だけを主張する事が恥ずかしい事と思っていない。自分だけ苦しい社長、自分だけのこだわりの滝打たれ、自分を名乗らないで希望を言える人…。いい歳こいて恥ずかしくない。簡単な事で、やった事しか人格は作られないのだ。その人が最大の不幸であるとしたら最大の事を省略したからに外ならない。省略された分だけ社会的な行動が欠けて行く。社会的行動が欠けて行く分、社会から孤立して手前勝手な行動が増えて行く。
 すべては社会的行動を作るべき普段の痛みを自分で省略した事による。それなのに他人や社会のせいにし、最後には神霊のせいにしたりする。私が悪うございましたとは言わない。子供が言えないのではなく、大の大人が言えないのだから、悲しい。
 だから滝に打たれているから修行なのだと錯覚できる。滝打たれでしかないのに、それを修行と言う人ほど社会的行動基準がない。ついでに言えば滝場での筆者の講話の多くは修行以前の問題なのだ。残念な事に会員の中にも滝に打たれているから修行と思っている人も多くいるのだ。
 一方、今回はフリースクールの先生と生徒も打たれた。不登校児ではあっても、こっちの言う通りで大きなパワーを発揮した。涙が浮かぶほど感銘が深かった。頼もしく思った。
 回の滝開きを見ても、社会には社会常識のない大人が多い事が分かる。その結果が子供の不出来だ。つまり不出来なのは大人であって、子供ではない。大人が社会を作る側にいるから、子供の不出来が見えるだけだ。それなのに自分を棚にあげて子供を非難する。自分の欠陥を見様としないで、主張だけをする。それは女人堂の世界だ。女人結界が現代ではかの社長の様に男性にまで及んでいる。どうやって子に対する責任を果たすのか…主張ばかりする大人には分かりようがない。子が不出来では当然に社会が良くならない。大人の責任は大きい。それ以上に自分の人生への責任は大きい。


   

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