(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年1月号

 あるまじき事に防衛事務次官が収賄をし、国会に呼ばれ逮捕された。我が国の防衛の長である事務次官が欲につられて接待ゴルフにうつつを抜かすのは情けない。こんなことで文民統制ができるのだろうかとこの国の国防意識の弱さを思う。筆者が個人的に辛いと思ったのは、女房の賄賂おねだりの使いっ走りを防衛事務次官がやってた事を世界中に知られた事だ。何やら日本人であることが嫌になってしまった。
 かと思えば土産品から食料品そして全国チェーンのファストフードまでが偽装・不正表示をしていた。偽装・不正表示について言えば、筆者のものぐさを証明するようだが、別に死ぬ訳でもないのだからそんなに目くじら立てなくても・・・という思いがあるのだが。
 それにしても防衛事務次官の収賄事件と食品の偽装・不正表示事件には共通項がある。その共通項とは、
自分の思いをダイレクトに優先できた事である。
 国防の長が亭主関白である必然はないが、悪事をいさめる妻ならともかく逆に妻の賄賂のおねだりを代弁していた。これは守屋という事務次官の家だけに通じる屁理屈である。屁理屈をはばかる事なく実行して愧(はじ)と思わないのは辛い。恥ではなく慙愧の愧である。なのに愧とはせず、屁理屈を通して幸せに思ってしまえる浅はかな生き方を何と言えばよいのか・・・。この愧は生き方とか良心へのハジで、奥深くそして消える事がないものなのだ。
 食品の偽装・不正表示も同様で会社上層部が目先の利益しか見えてない。その目先の利益を会社の営業方針とするのは屁理屈だが、その屁理屈が企業目標として推進されていた。食品の偽装・不正表示は守屋家と同じで、自分の思いを疑ったり吟味したりせずただ優先し、社会常識(社会常識が正しいとは限らないが、であればこそ)との違いを顧みようとしないという事が共通項だった。
 目標が社会常識から外れるという点では、実は私達の家庭もそうなのである。気付いてないだけなのだ。夫婦の間で善しとなれば正しいというのは大きな錯覚だ。その家だけの思いによる行動は廻りに大きな迷惑をかける。夫婦の間の善しを行動の基準にする家は子をダメにし、実は夫婦も実利のみの結び付きとする。この現実に気づくべきだ。家の思いの実現を何にもまして優先し、その思いと社会常識との差を検討せず、思いの実現を以って幸せと呼びコトの終わりとする。だが社会常識との差の検討がない分、責任を忘れた個人主義になり、傍迷惑となる。
 
社会常識は人それぞれで、皆違う。社会常識が人によって違うのは本質的に皆の個性が異なっているからだ。方向が違っていても判断が違っていても、それが個性のなせるものなら仕方ない事だ。だから社会常識の共通項とは社会貢献という目線がある事となる。この社会貢献とは社会生活を果たすことができない人間の責任でもある。
その社会性を忘れて『やりたい事をやったからいつ死んでも良い』という人がいるが、授かった命・人生に対して都合を満たす事に終始するのは愧ずかしい生き方だ。
 自分のやりたい事を社会貢献の目線で疑い、やるべき事であるか否かを常に考えてねばならない。
 
社会への迷惑がかかってもやらねばならぬ確信事があってこそ人生だ。がこの場合の確信事とは、社会貢献と自分の個性とを問い続けて、最終的に個性を優先せざるを得なくなって至る価値観だ。大人は個性と社会貢献へのこだわりを若者に示せる存在であるべきだ。


   


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