(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年10月号

 夏登拝が終わった。幸い今年もたいした事故が無く終わる事が出来て、安堵している。 しかし今回は前日に隣の愛知県で時間百四十ミリという大雨が降っていたし、筆者の異常気象に関する投書が掲載されたばかりで、天気を正確に判断するのに強いプレッシャーがかかっていた。
 投書では悪天候を判断する個人的な視点と引き返す基準を持つべきだと主張していたからだ。そんな主張をした者が団体を率いて遭難していては恥ずかしい限りとなる。御嶽行きのバスの中で、今回は遭難に及ぶ可能性がある、と思った人は少なかっただろう。登拝者は下賜された修行日程しか眼中になかっただろう。だからこそ引率の筆者としてはプレッシャーがかかっていたのだ。
 筆者は逆にプレッシャーこそを喜ぼうと思った。「こんな機会はめったにない。希少機会に出会えただけで既に幸せなのだ。後は苦しみを味わうだけでよい。苦しみを味わえば幸せを強く味わえる」と。
 幸も不幸も人生の風景である、とは教祖の御教えの一つである。ただひたすらに生きて真剣に自分の鼓動を味わえばよろしい、それが人生風景論の基本である。
 幸い天気の読みは外れなかったし講員はそれぞれの思いを身に刻みながら二日間を終えられた。天気の読みが外れなかったから良かったのではない。外れる当たるではなく、人生にめったにない希少機会で胸をどきどきさせ通せた事が筆者には嬉しかった。「役得」だったと思っている。筆者同様に我々の登拝は各自に役割担当がある。どんな小さな役割にも役得はあったはずだ。その役得を味わえたと答えた人が何人かおられた事に講として妥当な姿と思った。しかもその役得が名誉とかいう相対価値ではなく、自分の感性への絶対価値で答えてくれたのは頼もしい限りだった。理想的には全員が役得を得るのが正しいのだが…。
 さて私達は嫌な事に際して、だから「懸命にやる」人と、だから「イヤイヤやる」人の二通りがある。勿論、役得を得るには「懸命にやる」事しかない。が難しい。
 一方、社会を見れば嫌な事に際して、やらないで済ます事を幸せと呼ぶ人が多い。楽しくないものはやらないで、楽しい事だけやれば伸びると宣う人も多い。そんな事を宣う人に「ではあなたの言う楽しいとは何ですか」と問うと、そこに新しい事や不慣れな事が入っていない共通性が現れてくる。
 滝打たれで見えるのは、
出来る事しかやらない人は絶対に自己変革に至れないということだ。自己変革を目指して滝に打たれに来ても、出来る事しかしなければそれで終わりなのだ。要するに出来ない事に懸命になれなければ自分を変えてゆけない。出来る事からやりなさい、と言う言葉は本来、許される状況の中でやりなさいという意味で、その状況の中で出来る事なのか出来ない事なのかなどは意味していない。状況が許す範囲なら出来なくてもやりなさい、としか意味していない。それを、過去にやってみて出来た事しかやらないでよい、というすごい手前勝手な解釈をして疑問に思わない。
 新しい事・不出来な事にしか自分を確信させるものはない。単純な事で、自分が確信できなかった不出来な現実を否定すれば良いのだけなのだ。だが不出来が自分のせいだとしても新しい事・不出来な事に挑むにはかなりの勇気が要る。だから、すごい人になると「是が私です」と勝手に決めてしまってその世界から出てこない人がいる。そのくせ自分で勝手に決めた世界がただ気まずさを避けるだけで、自分を解放してない事も判らない。  
 神は私たちに必ず嫌な現実を与えておられる。それを避けて生きても行ける時代でもあるし、情けないことにそれを幸せとも呼んで疑問に思わない時代だ。だがそんな人は永遠に役得には巡り会えない。役得になんか巡り会えなくても良いと考えてはならない。そこにしか唯一、自分を解放させる自分らしさがないのだ。



講話集トップへ戻る




トップ定例活動特別活動講話集今月の運勢@Christy