(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年12月号

 またまた日本人のノー天気が表現された。バナナダイエットである。このブームによってバナナ輸入業者が悲鳴を上げるほどバナナが売れに売れているらしい。確か、朝食はバナナと水だけで痩せられるというものらしい。ここまでブームになるとノー天気さに微笑むことより、物事を考えない安直な習性が不気味に思えてきて悲しくなる。
 前にも納豆がダイエットのブームになって品薄となった。そして今、納豆は普通に売れている。尚言えば納豆にダイエット効果があったのかは不明である。納豆にしろバナナにしろダイエットの因子はあるにはある。その因子が極端に現れる人もいるにはいた、というだけだ。
  滝には自己啓発セミナー経験者も多く来る。あのセミナーはよかった、と言いつつ滝に来るのは、そのセミナーに不満足だからだ。物事の解決は廻りの条件が思い通りに変わることではなく、自分が変わることだだからどんなによい啓発セミナーであっても、その良いことを身につけるというには自分の『反復』行為にしかない。その反復の手間を払えない自分が払えるように変わらないうちは、何をやっても変われないそのことが何故判らないのだろう。啓発セミナーの常連はここが判っていない。バナナダイエットと同じであって、自分が変わらない安直な方法で結果を得られると思っている事は悲しいことだ。
 物事を考えない安直な習性といえば先の総選挙を思い出す。この欄で何度も書いたが、ドラえもんに似たあだ名の虚業家が次点になった。世紀のペテン師総理のチルドレンが続々と当選した。そして今、ペテン師総理は引退し子供を後継者に指名した。あれほど構造改革などと言っておきながら、ぬけぬけとあれは嘘だったと暴露し平然と後継者を指名できる不思議。だまされた人は騙されるだけあって、そんな元総理の矛盾に気がつかない。そして政治が悪いとわめく。だがそれは誰のせいでもない。そんな政治家に躍らせられた自分の不明こそを嘆かねばならないのだ。
  世の中面白いもので、くない人ほど物事を考えないし手軽なことばかりを求める。暇なのに考えようとしない。逆に忙しい人ほど物事の原理原則を考えるし、だからきっちりと物事をこなす。忙しくはあるがそこには確実さが存在する。それはそうで、考えるほど原則的な処理となり、簡便さに至れる道理が無い。
  簡便な処理は自分で考えなくてよい分、とても楽である。自分で考えず指示を仰いで行動する人は結構と居る。楽なように筆者には見えるが気苦労があるという。気苦労が続くが、その気苦労が実を結ぶことはない。それは気苦労が理解するためではなく、わかった振りをするための苦労なのだ。
  自分で考えない人はその時の『よい人』という都合よいポジションを得ようとしているだけだ。得たいのは都合のよさであって、理解ではないのだ。そのための気苦労なのだ。だがどんなに気苦労しても理解できないのだから永遠に自分で考えられず、自分で考えられないのだから物事の組み立てができない。
 知は痛みだから未経験な事を理解できる訳がない。だから、判らないことは決して恥ずかしいことではない。いや恥ずかしいことだと思えることがあったとしても、自然な姿なので少なくとも悪いことではない。判らないくせに判った顔をすることが一番の恥ずかしいことだ。
 結果が出さえすればよいというものではない。大事なことは経過をじっくり踏んで自分で感じ取り、状況や環境が変わる事ではなく自分が変わるという事だ。自分が変わったことによる解決というものには自分の思いが満ち足りるということが少ないかもしれないが、必ず安心がある。安心があるから、不都合な解決でも受け入れて行ける。今回のバナナダイエットについても高校生じゃありゃしまいに…と思う。大の大人が安直な生き方に疑問を持たない。大人が不出来だからあんな事がブームになれる。国の悲しい姿だ。



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