(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年2月号

 NHKの連続ドラマ「ちりとてちん」が面白い。一般にドラマの多くは突発的なストーリー展開となって非現実的な話になりたがるがこのドラマは非現実的さが少なく、久しぶりに厚みがあると思う。
 昨年暮れの放送の事だ。主人公の女性が落語家の年季明けを迎える事になった。年季が明けると師匠の家を出て行かねばならず、仕事がなく食うにやっとの生活が待っている。それも弟子として通るべき修行である。落語家として大切な人間共通の感覚、それがこの貧困弟子生活から生まれるからだ。−俳優も同様で、スターならいざ知らず
脇役はどんな性格でも演じられる事が求められる。ある種の貧困はその為には糧となるー。主人公は兄弟子が好きで年季が明けると貧困と共に兄弟子と別に暮らす事になる。「落語修行より男修行が大切や」その時の居酒屋のおカンの言葉である。通るべき定めの修行より突発的に舞い込む現実に悩まされる方がより修行だ、と言う。まさに明言である。
 以前「女の価値は男の数」と言い切ったドラマがあったと思い出した。異性との問題は生活の多くの時間を占める最大の「ままならぬもの」である。だから学ぶべき事が子育てと同量にあり、ままにならない事にきちんと向き合うから修行になると言いたいのだ。
 私達も修行と言って滝に打たれている。修行は普段の生活がきちんと出来てないと何も教えてくれない。つまり滝に打たれるだけでは修行にならないのだ。そのきちんと出来なければならない普段の生活の中には夫婦の事、異性の事がある。これは必然である。
 教会や滝の会で見受ける間違いの根本は、夫婦や異性関係をきちんとやってない事だ。きちんとやるとはバトルを続けるという事だ。だが多くは、物分りが良く慈愛と思いやりに満ちる事がきちんとやる事だと錯覚している。訳の判らぬ不要な、はっきり言えば孤立を避ける為の武器として物分りの良さ・慈愛・思いやりがあり、それを切り売りしている。だからはた迷惑な夫婦が生まれる。
 切り売りする事は不自然な事だからその不自然さが音をあげ、夫婦の危機となる。だがそれは夫婦の危機ではなく、夫婦それぞれ個人の生き方の危機なのだ。
 
通らねばならない道は夫婦でも恋人同士でも一人一人違う。その一人一人違う道を折り合わせようとするのだから、そこには言い争いが生まれる。その争いは当然の事で、それを避けて優しいとか思いやりがあるとか言うのは狡さであり思い上がりである。
 
言い合いの中で自分らしさとか理想とかあるべき社会的な姿とかが見えて来る。だが「べき」ではなく、都合のよさで話の決着をつけてしまう事が多い。これが筆者の言うきちんとしない生活である。
 
滝場は修行の場だから、一切一人が絶対原則だ。夫婦でも他人だと言う。「一切を自分で準備し都合をつけて来なさい。自分のやる事に手を貸されても断るだけの筋道にこだわりなさい」と言う。でなければ滝打たれは何も教えない。
 対して教会の相談事は夫婦一体であり、最悪な事に一体になって都合のよさ・便利を求めようとする。簡単な話で家庭も個人も修行の場であるのに便利の場になっている。だから家庭が破綻するのだ。
 都合のよさを求めて破綻するのはその人の考え違いにある。夫婦一体で便利さを求めるという事は相手に対しても自分の便利さしか求めない事だ。でもそれを幸せと思っている悲しさがある。自分が都合よくいたいなら家庭なんぞは持たない事だ。バトルを続けてこそきちんとした家庭なのだ。
なにより便利さを幸せとし、生きる目標がそこにあると思っている偏った経験は修行ではない。幸せと生きる事とは全く違う・・・男も女も生きる次元から出発しなければ、きちんと生活した事にならない。   


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