(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年3月号
 滝打たれの寒篭りが漸く終わった。今年は極端に寒い日はなかったが、ずっと氷点下の気温であった。連絡体制の不備など毎度の同じミスが続き途中で苦言を呈した。
 苦言を呈する度にその苦言が修行の以前の日常問題であるために、情けなさを思わされる。同じミスを毎年犯す不思議を思いつつ、同じ事をやっていても自分を振返るか否かとその強さで大きな差になる事をつくづくと思った。
 「それは修行ではないのだから自分でやれば・・・」が修行を預かる者の基本的態度だ。が、日常生活をしっかりできないと修行等の「継続」するものはなし得ない。そして継続事ができない人は何一つ学べない。振返りの継続が学ぶ事の正体だからだ。そして学ばねば人間は存在できなくなる・・・。だから修行を統括するという筆者の立場は、日常まで口を挟まねばならず、その悲しさに自分の覚悟不足を毎年思い知らされる。
 それはさて、振返ると言えば今年の寒篭りでは「母親との接し方の振り返り」を新たに特別修行とした。小学入学前、小学低学年、高学年中学・高校、社会人に区切って自分が母親とどう接し、どう受け入れられて来たかを振返る試みだった。
 人は生涯を通して共通したハードルが設定されていてそのハードルのクリアの仕方で人格ができて行く。ハードルを設定するのは神で、その神がハードルを意図的に外したり、逆に多く設定したりして個性を授ける。あるいは同じハードルが個性によって理解されて固有人格になって行く。その中で親とどのように関係してきたのかを振り返ることで自分が省略したり過分に越えたハードルを見つけ自分発見に役立てようとするのが目的だった。
 その親を母親に限定した。それは人格形成の始まりの殆どを母親が握っているからだ。母親のやってくれた事をどう思ったか、子としてどうしてほしかったか、子の思いを無視した母親はその時どんな心理だったと思うか・・・等々。始めは仲々書く事がなく何日もたってから書き出し、書き出すと色々なことが連鎖的に思い浮かんで来るようだった。
 提出されたレポートを読んで一様に言えるのは、母親の殆どが自分本位で子供と接して来ているということだ。私達は七十才、八十才になっても子供の時の価値観で行動していることが多いし、それに気づかない。その子供の時の価値観は母親の自分本位な行動から生まれたものが多い。
 母親の自分本位とは子にとって愛情不足を意味する。つまりレポートに書かれた母親の自分本位の分だけ愛情不足があったと言え、それが各自の人格の歪みになったと言える。
 では問題の愛情とは何なのだろう?。我が子を邪険に扱える事は母性である。だが自己本位で邪険に扱う事は愛情不足となる。子を守る為の邪険が母性で同じ邪険でも子ではなく自分(母親)を守る(気の済む)のが自己本位である。更に「自分の気が済む為」に行動するのが女性の実態だ。霊山に必ずある女人堂の原点は自分の気が済む事に始まる。自分の気が済む行動原理の女性が子を邪険に扱える母性を持つ・・・その矛盾が子育ての側面の姿である。
 実はその母親も愛情不足で育っている。だから愛情というものが分からないのだ。日本で愛情とは家にとって都合の良い事しか意味をしなかった。家を維持せねば家族はなく、米作りをするには家が必要だった。だから辛抱我慢が社会でも家でも、最大の価値であった。都合の良い事のためには辛抱我慢するのが愛情と考えられた。
 今回の振り返りレポートでは母親への恨みが多かった。母親の心理を探り、理解して、尚否定すべき母親がある事は、自分発見という意味では残酷だが貴い事なのだ。


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