(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年5月号

 国会は暫定税率とか道路特定財源とかで大騒ぎである。しかしなんでこうもその時だけの騒ぎに熱中するのかと白々しく思ってしまう。「あの騒ぎは何だったのか」という事がこの国には多くあり過ぎる。トイレットペーパー騒ぎであり、米不足であり、先の改革選挙であり、今回の国土交通省関連の問題となる。突然降って沸いた騒動の様に扱い、脈絡もなく参加して終われば終わった、なのである。およそこの国は古くから訳を分かろうとしないままに大騒ぎへの参加が得意な国柄なのだ。それを筆者は「稲作文化」と呼ぶ。何と呼ぼうがこの国の全員一致の空騒ぎにへきえきとしている。それは私だけなのだろうか・・・。
 今回の暫定税率問題は二五円の値下げだけに目線がいっている。庶民がそうだとしても仕方ないのかも知れないが、国会議員ですら二五円にしか目線が行ってないのは辛い。さすが、値下げだけにしか目線が行かない庶民の選んだ議員先生だけの事はある。私達をリードし啓蒙するのも議員先生の務めであるはずなのに、自分が次に当選するための政争の道具にしかできていない。
 今回の道路特定財源は行政改革を基本にして考えるべきだ。小泉劇場という行政改革によって、この国の地方は著しく疲弊してしまった。筆者の住む町では市長の継承路線がノーと言われる選挙結果となった。当然である。小泉行革は平成の大合併をも否定するほど地方の疲弊を作り出してしまったからだ。
 平成の大合併も行政改革の一つで、行政改革は小さな政府にたどり着かねばならないはずなのに、一向にそうはならない。小さな政府とは公務員の削減、財源の地方移譲、交付金の見直しを伴うが何一つできていないではないか。というより国会議員諸先生はとうに行政改革を忘れてしまっている。忘れてなければ、今回の道路特定財源問題なども少なくとも政争の道具にはなりえない。道路特定財源問題で小さな政府実現に対する議論が何もない現実は単に政争の道具としか言いようがなく、国会議員としての怠慢である。何よりそういった議員に人気投票してしまう我々の罪である。
 国会議員始め議員諸氏を理念とか理想で選べない我々庶民が一番悪い。それもそのはずで、大人に教育ができていない。そんな大人が子供の教育などできようがなく、なのに若者の不出来を指摘する大人が多い・・・。もう少し自分を見ようとできないものだろうか。
 滝打たれでもそうだが、せっかくの修行が身につかない人の共通の点に自分が見えないとか自分の思いを直線的に押し出す事がある。今は流行遅れになった言葉の「KY=空気をよめない」ではなく、空気をよむ気がない・よむ発想がないのだ。それをして個人の充実とか幸せと呼ぶ価値観がこの国にはあるのだから言ってみようがない。
 まず我々が常に物事の基本を意識しようとせねばならない。滝では「ふっ切る」とも「それはそれ今は今」とも言う。そのようにして行動に際してはまず自分の思いを捨ててかからねば、何も見えては来ない。人間の目はその意味ではどんなに良く見えても節穴にできているのだ。例えば女性が男性よりはるかに逞しく強い事を見える人が何人いるだろう・・・それだけ多くの人の目は節穴なのだ。
 節穴であっては基本が何も見えない。基本が見えないと、一つの花火にワーっと押し寄せる、花火が消えれば新しい花火を待ってしまう。花火のどこが良いのかとか花火はどうあるべきかとか花火が必要であるのかは考えない。いつも花火に踊らされて終わりだ。
 花火がなくても生きられる事を私達は御嶽登拝で何回も経験している。節穴にしないためにはまず自分を疑う事だ。それは一旦自分を置いて行動してみれば出来る。


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