(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成20年9月号

  北京オリンピックの開会式での事だ。「国が救うのは国のみでしかない。国民などは絶対に救わない」と改めて思った。
 国家体制が自由主義か社会主義かの違いもあるが、それにしても国家の威信だけが前面に出された開会式だった。二時間半にも及ぶ選手の入場行進。その間、手を振りステップを踏んでトラックで歓迎を示す人達がいた。手振りもステップも笑顔の表情までも同じで二時間半もやり続けていた。歓迎の花火が何万発も打ち上げられていたが、多くの北京市民は治安維持のため外出禁止とかで見られなかったという。
 日本では考えられない。「さすが社会主義というか団体主義」は筆者の皮肉である。国のためのオリンピックであって、国民など国家威信の為に動員されるだけの存在でしかなかった。開会式場に雨雲があったためにロケットを多数発射して雨雲をどこかに追いやったという。国家威信の為には天気さえ従わせてしまう・・・。情けなかったのは日本の国営放送的な放送局で、「素晴らしい」を連発していた。だが彼らにも北京オリンピックの馬鹿らしさは見えていたはずだ。褒め称える位なら別の説明をしたら良かろうに、と思った。
 一方、中国首脳は鼻高々だったのだろう。「我が国は物事をやる時に国民にこれだけの犠牲を強いる力があります」という奢りが見えた。だがそんな価値観は体制が違う自由主義国家には通じない。国家は決して個人を救わない。国家第一主義は自由主義国家でも同様だが、あれほどの国家至上ではない。この国家至上主義が中国首脳に判ってないから、憎まれている中国が浮かび上がっていた。ウイグルやチベットの独立支援勢力にとっては北京オリンピックは最大の意思表示のチャンスだった。また国家至上主義が国民にも徹底している為に、オリンピック警備が過剰で、外人記者にも中国国民と同様の犠牲を強いていた。外人記者が受けた強制は中国国民より当然に軽く設定されていただろうが、それでも不満だらけだった。
 一方、自由主義圏の王者を自負するアメリカも奢った国という点では似たり寄ったりだ。アメリカンドリームとは言うが言葉を変えれば弱肉強食でしかない。アメリカのパワー至上主義も全く醜く見える。筆者の好みで言って恐縮だが、だから「アメリカと中国は嫌い」なのだ。
 そんなふうに見て行くと日本はややましかな、と思えてくる。だがその日本では、国民の幼稚すぎるのが目につく。いわゆるモンスターペアレントが最近では問題になっているが、しかし日本人の「深く考えないで満足を求める」姿は最近の事ではない。深く考える事が情緒とか感情に訴えるだけで考える基準は常に利便にあった。
 要するに考えない。日本人の多くが考えるのはいかに満足を得るかであって、肝心の「どうあるべきか」は目線の外にあった。だがどうあるべきかを考えなければ何事も考えた事にならないではないか。
 モンスターペアレントとはいうがその親である昭和十年から二十年代生まれが手本となって来た。つまり満足を考え、・・・べきを考えなかったのは現代の第一線にいる我々なのである。さらに言えば昭和十年から二十年代もその親から同じ生きざまを教えられて来た。つまり国民が幼稚すぎるのは現代特有の現象ではなく、日本の稲作文化の現れなのだ。
 米は作りたい人が少数で作る時代になり、共同作業を存続させてみようがなくなった。米作りに必要な協調性は現代には不要なものとなった。つまり稲作文化は終わった。作文化の共同作業ではなく、個人作業の文化が勃興せねばならない。その為には深く考え、・・・べきに至り、その・・・べきを自らに強制してもできなければならない。それも急がねばならないのだ。



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