(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年12月号
  酒井法子というタレントが覚せい剤使用で逮捕された。覚せい剤に限らずだが、薬物は一度人体を汚染したらなかなかその体を正常に戻せない。なにしろ薬物は人体自らが生み出す薬物の何百倍もの濃さなのだ。自然界に存在しないもの(薬物)に汚染されるのだから、一朝一夕では元に戻れない。それだけ自分を自然界の人間でなくしてしまうのだから常習となってしまう。一度やったら元に戻れないのだが、やってしまう。
 このタレントを見ていると育ちの貧しさ人間性の貧しさを感じて辛かった。裁判長はそれを『人間性が卑劣』と言った。その貧しさを感じ取れないでファンになっていた人が多かった。それに驚いた。表面で人間を見るのが私達の常だとしても、彼女の場合表面にその貧しさが滲んでいた。その染みが見えない人が多かったことに驚きと情けなさを思った。
 彼女を責めるのではないが、彼女はどこまで反省しているのかと思った。そう思うと非常に不愉快で、悲しさを感じた。なるほどスターは作られるものだと思った。保釈時の記者会見での化粧の仕方、反省の言葉そういった事を全て計算づくで行っていた。優秀なスタッフがいればスターはそのようにして作れるのだ。
  だが表面的には芸能界に復帰する事ができたとして、彼女の体からはそんなにたやすく薬物は抜けない。脳みそが薬を求めるのは明白だ。つまり彼女の記者会見での化粧や反省の言葉は、脳みそが薬物を必要としなくなった時に初めてできうる姿なのである。それを短期の拘留なのにできてしまう不思議…何十年も後になって初めて出来るはずの反省が簡単に出来ていた…つまり彼女が何も反省していないのだ。反省するも何も彼女は取調べに応じているだけで精一杯のはずだった。反省に似たものがあるとしたら復帰するに必要だからという自分の都合しかない。そのご都合記者会見を報道するマスコミは、芸能界復帰を支援している様なもので軽薄さが情けなかった。
  痛みを避けるから彼女は記者会見が出来た。彼女のタレント性も詰まるところが痛みを省略して作られたものだ。緻密な計算で作られたものだが、やはり筆者には彼女の薄っぺらさが垣間見えて好ましく思えなかったのだ。一方では長い間売れない時間を過ごして漸くスターになる人もいるし、志半ばで道を諦める人もいる。俳優界はサバイバルだから生き残ればそれなりの仕事にありつく。仕事にありついた時にそれまでの売れない時間の痛みが磨かれた個性となって演技に表れて行くものだ。
 酒井法子はその痛みの時間を省略して有名になろうとした。優秀なスタッフが彼女を痛み無しでスターに仕上げたのだ。彼女のように私達も痛みを省略して目標を突破することも出来るのだ。だが、だからひ弱で弁解だらけの人生となって行く。そしてそれは酒井法子一人の問題ではない。現代人には彼女と同様に目標への最短距離を歩いて、それを恥ずかしいと思わない風潮が現にある。
 彼女のひ弱さを表すのは「覚せい剤はストレスを解消するために使った」という発言から充分に伺い知れる。彼女よりもっともっと売れっ子でも覚せい剤を使わない者は使わないのだ。要は何ををストレスと思うかである。ひ弱な者は些細な事でもストレスにしてしまうし、それを恥ずかしい事に思わないで自分だけが不幸であると訴えるそれが一番情けなく恥ずかしいのに、である。
 トレスから逃げようとするのが間違いなのだ私達は滝打たれからマイナスやハンデイこそが最大のエネルギーと体感させられている。それは痛みに鈍感になったのではなく、痛みを人生の連れ合いとか当たり前の事として受け入れられるようになったからである。だから痛いのは痛いし痛みを口にもするが、ただそれだけのことで、ありきたりのこととして受け入れている。生老病死の一切は人生の通らねばならない痛みで、ありきたりの事として人生展開にプログラミングされているだけでしかないそれをストレスと呼んでも良いが、ストレスはだからこそ自分を磨く最大のもので、それを不幸とは言えないものなのだ。

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