(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年4月号

同級生が亡くなった。芳しい死に方ではなかったようだ。どのような死に方かはいずれ少しずつ見えてくるだろうし、軽々に人の死を話すことは憚るべきこととは思う。が、どうにも釈然としない。繰り返すが、同級生の死は悼ましいと思っているし、死者を鞭打ちたいのではない。
 
自ら命を断つことはありえないと筆者は思っている。滝に打たれていると『いつ死んでも仕方ない』と実感するし、だからこそ『死に耐えうる生き方』に思いが行く。恐怖があるから死を覚悟せざるを得ないのであってつまり好んで死のうなどとは思っていないのだ。何よりも、生命あるものには生命保護の本能が備わっているのだ。
  彼の場合でも筆者は弾みでつい死んでしまったと思っている。多くの自殺には、本人にとってやり切れぬ現実・不幸な現実が背景に必ずある。だがそれらの現実は背景であって、死ぬ原因にはならない。どんな悲惨な現実であれ生命保護の本能は、楽になるために死を望むことなどは起こさせない。では生命保護の本能はどんな時に消えるのか…それは何らかの事情で、切ない現実にフッと一息つけた時である。その時に死ぬ事が怖くなくなり死ぬ意味が見えなくなる。怖くなくなって死の引き金が簡単に弾かれてしまう。 動物にも生命保護の本能が備わっているから、死が恐怖であることはわかるだろう。だが死ではなく、生きる大切さを動物が判るかと言うと、大いに疑問だ。人間には、周りと自分を区分けする自我という意識がある。自我があるから生き方に悩む。自我が無かったり、或いは自我の希薄な他の動物は、悩む事があるのか疑問に思う。 
 自我があるために生きるとは苦の連続である。逆に言えば苦しいことが生きている証拠なのである。
現実は百のうち九十九が不幸となって出来ている、と言うのはこの故だ。残念ながら百のうち九十九が不幸であることを大の大人でも判らないで、自分だけが不幸だと言う。百のうち九十九の不幸の人が大半なのだが、しかしその不幸の九十九の量が人によって違って九十八だったり九十五だったり、或いは一つの人もいるかも知れず、更にそのように不幸の量とか幸福の量が個人的に予め定められて誕生する様に人間はできているのだ。
  自ら望んでこの世に生まれ出た訳でもない命だが、生まれた以上は、百のうち九十九が不幸な現実を生きねばならない。生きるとはその不幸な人生を積極的に生きるかどうかであって、いずれにしても自分に授けられる個人差が偏った幸せの量にかき回されるのが生きるという事なのだ。
 つまり生きるということは不幸な状態にいつづける事なのであって、不幸だから自分なのである。もっと言えば自分に授けられた不幸を味わえば済むのが人生なのだ。それなのに私達は不幸を幸福に変え様として苦しむ。その苦しみの突破を社会では誤って努力と言う。
  私達の多くは自分で現実を選び、自分で幸せを選んで努力をするが、選んで行う努力は何を意味するというのか…。一切を任せて、選ばねば良いのだ。出来・不出来などに縛られねば良いのだ。宇宙を作られた神が私達人間に初めから不幸を授けているのはオリジナルな不幸を味あわせたいからなのだなのに神の授けたオリジナルな不幸を、努力して自分勝手な幸福にすり替え、意が叶うと満足し叶わないと悲嘆にくれる。神の下された摂理の外で生きている事が判らない。単なる便利のみを追い続けて終わる人生ではないか。そんな人生ではどんなに意が叶ったとて実は生きていないことになる。
  現実を選び幸せを選ぶことは命に従順でない事を意味する。選ぶから、不幸だらけだが堂々たる大きな自らの命を都合に満ちたものに変え、都合が満ちるから不幸に遭えず幸せも判らず、不幸に遭えないからオリジナルに至らず、自分の命を矮小にしてしまうのだ


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