(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年5月号
 銀行に偽口座を作り、その偽口座をオレオレ詐欺グループに売っていた人たちが逮捕された。逮捕された人が二十名以上と放送ではなっていた。そして逮捕された人達は皆、サラ金の破綻者であったという。オレオレ詐欺グループに偽口座を売っていたとは言うが、実際には詐欺グループに目をつけられていて、グループの言うままに行動し見返りとして一・二万円を貰っていたのだ。同じ悪いことをしたのだが自らの発案でないことが辛いと筆者には思える。なるほどオレオレ詐欺グループは頭がよろしいと思った。
 自らの発案でもないのに、たった一・二万円を貰うために他人の言いなりになる…言いなりになれることが筆者には理解できなかった。その答えは逮捕された人のインタビユーにあった。彼らは共通して「金がないから、金のためならなんでもする」と言っていた。そうではない、それは間違った考え方なのだ。瀕すれば鈍すという生き方は否定されて然るべきなので、要するに彼らは原理原則を持たないのだ。
  原理原則を持たないことをいえば、定額給付金問題では、時の総理が「高額所得者がこの金を貰うか貰わぬかは矜持の問題」とおっしゃっていた。筆者は低所得者だが定額給付金の一万二千円を貰うに猛反発しているし、絶対に受け取らないと決めている。総理は言葉を良くご存じでおられから矜持というものをぞんざいに使っておられたが、それほど高尚な問題ではない。たかだか一万二千円という金額で個人の矜持を計れるとしたなら、その人は悲しすぎるほど存在価値がないことになる。それほどにしか人間の存在価値を認められない総理は同じように、原則を持ってないというべきだ。
 この一万二千円というお金に対して、大切な金だから早く配布すべし、という投書があった。色々な考え方があって宜しいが、投書者が三十歳代の主婦だった事に落胆した。同じく早く配布すべしというにも、それ位の金は私が働いて稼ぐからその分高齢者に…と言わないで自分も苦しいと言う。本当に必要な人が言わないのに、働ける人がしゃしゃり出て切ないと発言する…これも無原則だからだ。

 「小額でもお金はお金、ないよりあった方がマシ」という考え方は昔から結構とあった。だがそういった考え方で我が思いをがさつに遂げ、そのがさつさ故にあるべき・残すべき価値をどれほど失わせて来ただろう。地域の祭礼の厳しい規律が、楽しい祭りというあってもなくても良い価値観で消されていったように、ないよりあった方がマシの価値観は目先を満足させるものの、心からの満足を導くものではなかったことを物語っている。目先の合理のみしか見えず、本来持つべき合理を捨ててきた歴史に気づくべきだ。 人間本来が持つ合理とは不合理に根ざすものであって、不合理を合理化しようとするから当然に痛みを伴う。だからこそその痛みが積み重なって個人にとって安心への道標べが生まれて来るのだ。伝統が持つ郷愁とはそういうことで、非合理が持つ痛みから生まれる安心であって、理屈ではないのだ。そういった痛みを、ないよりあった方がマシ、の目先の価値で消してきた罪を自覚すべきだ。金が絡まぬから判らないでしまうことが多いが、要するに原則を持たない刹那の生き方を私達はしたがるのだ。だがそんな生き方は厳に慎むべきだ。金がほしいから犯罪であってもやる、との言い訳は思いつきだ。原理原則がない為に、そういう安易さを良いと思ったに過ぎない。そういった生き方をしているから、〇〇が欲しかったから金を使った、となる。だから偽口座を作った人の殆どが現実にサラ金の破綻者だったのだ。
  瀕しても鈍しない生き方こそ大事だ。そこには原理原則があらねばならない。その原理原則とは自分の思いを疑うことから始まる。


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