(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年7月号

国際ピアノコンクールで日本の二十歳の男性が優勝した。日本人の優勝は実に四十年ぶりという。辻井伸行さんという。辻井さんは生まれながらの盲人、それも全盲者であった。 「全盲で見えないのだからピアノを弾くだけでもたいしたことなのに、優勝したのはすごい」と多くの人が思ったようだ。報道もそのような報道をしていた。だが筆者はそう思わなかった。「あれは盲人だからこそ出来えたことだ」と思っていた。誤解なきようにあらかじめ言っておくが、辻井さんが人の何倍も努力したから勝ち得た優勝であることも筆者は主張しておく。
 だが、何事にも言えることだが誰でも努力すれば努力に見合った結果が出て、優勝できるものではない。努力で到達できるのは『人並み』というレベルなのである。人並みのレベルに至らないのは自分の努力が足りないのであって周りのせいではない、これは滝場ではいつも説くことだ。逆に言うと努力すれば多くの場合は誰でも人並みには成れるようにして生まれてくるのだ。
 
だがこの人並みというレベル以上のものを先天的に持って生まれる人もいるのだ。それを天性という人も多い。それは要するに個性なのだ。この天性・個性がない人の努力した場合の限界が人並みというレベルであって、天性・個性を持っている人は努力してそれを磨けばダントツのレベルになれるのだ。
  辻井さんの場合も、全盲ゆえに耳が非常に良かったようだ。だから母親の鼻歌のメロデイーをおもちゃのピアノで弾いてしまったというエピソードを持つ。全盲というハンデイの分、辻井さんは絶対音感という武器を先天的に持っていたと言える。同じようなことは版画家の山下清にも言えた。
 共通して言える事は、個性とはイビツということで、イビツな分だけイビツな部分そのものか、あるいはどこかが突出していてプラスマイナスゼロになっているということだ。
  だから私達も辻井さんのように、自分の天性を見出しそして磨けばよい。それが自分を天才たらしめる事になる。
  天性とは個性であって、個性とはまた命でもある。命があるから私達はこの世に誕生できるわけで、誕生した以上、誰でも個性・天性を持っているのだ。ただその天性に気付こうとしないだけだ。
  気付こうとしないのは、人と同じであろうとするからだ。なぜ人と同じであろうとするかと言えば、多くの場合、辻井さんのように天性がマイナスハンデイとなって表れるからだ。もっと正確に言えば天性・個性とは歪(イビツ)なのである。だから周りと同じでないイビツを持っている事に気付くと、自分を不幸に思ってしまう。そして周りと同じである為に尊い天性を否定してしまう。
 例えば物書きという天性を持った人がそうだ。色々と細かい感性を持っているから多くの言葉が使い分けられる。細かい感性はしかし気難しさや神経質というハンデイとなって表れる。つまり気難しさをイビツとして受け入れねば文章の表現力は発揮できないのだ。人と同じに反応したり同じように考えていてはせっかくの感性は錆つき、腐敗してゆく。
  先ず、自分のイビツを受け入れる事から始まる。それが厭であってもそのイビツを捨てたら自分ではなくなるのだ。イビツを受け入れたらそのイビツを伸ばして行かねばならない。つまり自分の特性を磨いてゆくということだ。
 自分の特性を磨くとは、きわめて難儀な作業である。何しろイビツという不幸(正確に言うなら不都合)を磨くのだからだ。その不都合を磨いてますます不都合を拡大してゆくのだから楽なわけがない。だが良くしたもので、不都合とは言うが一番自分に合ったものだから、その不都合は楽しい。大いに難儀ではあるが理屈なしに楽しく快いのだ。  神はそういう意味で理屈なしで楽しく快いものを天性の中に授けている。それが感動というものだ。感動は感銘や感慨とは全く違う。今今の事にイビツのままに当たり続ければそれで私達も天性と出会えるのだ。


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