(毎月発行の『連絡紙』より)


●平成21年8月号
 今年も夏の白玉の滝開きが行われ、私達は一般参加の方々と共に滝打たれを披露した。滝打たれの公開は冬と夏の二回行われる。冬は私達会員が主役で、夏は一般の方が主役と思っているのだが、夏は募集の定員十名になぜか達しない。どうせやるなら、本物で真剣勝負、と考えるのだろうと分析している。
 
夏の白玉での滝打たれは平成八年からだから、今年で十四回目となった。この間に二回の大水害が起きて滝そのものが壊れて、今は優しい滝になってしまった。十四年前は、いかにポジションを正確に立てるか、が問題だった。それが今は慌ててポジションを間違えて立っても、それなりにコナせる滝になっている。
 それはさて、白玉の滝で私達は営業をするために年二回、滝打たれの公開を行っている。何のための営業かというと、まじめに滝打たれをやりたいから、私達が不気味でないという理解を周りに求めるという為だ。それを私達は滝の一般開放と呼んでいる。そう呼んで既に十四年経ったが、年々変わった人が白玉の滝のみならず村松の霊場小屋にも訪れるようになっている。私達は一般開放にいそしみながら、色々な人々を反面教師として学ばせてもらっている。
 一般参加者の中には少ないが毎回来る人も居られる。みな滝打たれの精神を判っている。がそういう人は少なく、多くは自分の満足で来る。
  行動基準が自分の思いを満足させる事そこが現代である。そして自分の思いが満ちたりてそれを幸せと呼んではばからない。本来、幸福不幸と自分の思いを満たすこととは無縁のものだ。それがどんなに不本意であってもオリジナルとして十分にそして安心して味わえることなのに、情けないことに自分の都合を満たすという程度のことに幸福不幸という言葉を使っている。 
 現実は常に不満足・不本意にできている。このことすら判らない人も多い。判るのは年齢によるのではない。どれほど年齢が行っても判らない人はわからない。そういう人は普段の人生風景である不満足・不本意が判らないから不幸で、相談にのってもらっても意に反した意見を干渉や不要な説教としてしまい、わずらわしくてならない。
  要するに学ぶことが欠けているのだ。自分を世界の中心に置くから勝手な判断しか出来なくなる。だから意にそぐわないと都合の良いことを言ってくれる人を探して歩く。人生は彷徨するものだが、都合の良い所へ行く事を彷徨とは言わない。
 今年の白玉での一般参加の女性のことだ。申し込みから自分のペースだったようだ。ただ打たれたかっただけなのだ。行衣もゾウリも借りるのが当たり前で、打たれている姿を写真に撮ってほしいという。とても手が足りないからと断ると、では打たれる前の姿を撮って、となった。こういう手合いの人に、自分だったらとか普通だったらとか言っても意味がないのだが、ただただ呆れた。会員や一緒に打たれる一般参加の方々と交流するわけでもない。むしろ交流を避けてすらいた。
『で、何が残ったの?』が筆者の率直な気持ちだった。『せっかくの機会があなたの独善の判断で皆逃げてったでしょ』と。せっかくの機会とは自己研鑽の機会を意味する。他人に対する興味が無い事を自由と錯覚してはならないのだ。他人に興味がないのは自分への思いがないことと同じ意味だ。自分を中心にしてその自分を疑わないのだから、自分が明確に見えてこない。他人と交われば煩わしさが増すが、増す分だけ自分を疑わさせられ、その結果で自分のオリジナルが見えてきて、安心という真実が見えてくる。煩わしいから学べるのだ。それが不幸と言うならそれほど傲慢で手抜きの人生はない。  白玉の彼女は四十五才だった。だが学ぶことを忘れている人は彼女だけではない。厳しい言い方になるが派遣社員がそうだ。都合よく生きる者は都合よく雇われ都合よく辞めさせられる。学ばないのだからつぶし・応用が利かない。だからそれも当然だ。そういった人を優しく見なさいと世論は言うが、それが何も前向きのものを生まないのも確かだ。


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